人は世界であり、死は海である。
神は人の低俗な部分(注:1)を海に与える。
この海はすべてを取り囲んでいる。今のところ、
神は我々と海の間に標(しるし)をつけ、境界を設けているが、
海は唸り、牙をむき、常に脅かしては、
我々の岸を壊し、友人を奪っていく。
それで我々の内陸の水(感情の涙)が溢れ出る。
そのとき、我々の天空の水(注:2)は、
(それは我々の魂がその罪を悔いて流す涙である)
塩辛い味がして、葬式の味となる。
罪を洗い清めるこの涙さえ、罪である。
我々は神の否定(注:3)にもかかわらず、我々の世界を再び水に沈める。
毒をもったあらゆる生き物の中で、
生まれもった毒針で自分を刺すのは人間だけである。
涙は人を欺く眼鏡であり、悲しみの感情の霞を通しては、
我々が何者であり、彼女が何者であるかは分からない。
彼女においてはこの死の海が破壊することはなく、
潮が海辺の泥土を洗い流し、
砂上に刺繍の模様を残すように、
死の冷たい手が、彼女の肉体を清めるのだった。
中国の人は、粘土を地中に長い歳月の間寝かせ、
磁器として取り出すという話だが、
同じようにこの墓も、彼女の蒸留器として、
ダイアモンド、ルビー、サファイア、真珠、黄金
からなる彼女の肉体を浄化し、彼女の魂は、
そのようなものからなる肉体に、命を吹き込む。それは、神が
最後の火でこの世界を滅ぼす時の償いに、
これを万物の精髄と呼ぶものになすようなものである。
海は、得るものがあれば、失うものがあると言われている。
肉体の死(それは弟分である)が
肉体を奪えば、我々の魂は、
罪によって被る兄貴分の死から解放されることになるが、
二つの死(注:4)が正当性を競えば、どちらも死ぬことになる。
墓は、我々の記念碑であり、二つの死の亡骸である。
それで今や彼女は、なんの害を受けることもなく、二つの死を葬った。
罪を犯すことを嫌悪する者は、死に至る罪を犯すことはなく、
死ぬことを嫌悪しない者は、死ぬことはない。
彼女は罪を嫌悪し、死を嫌悪しなかったので、純潔であった。
彼女は一生懸命に励んだので神の恵みで、
罪を犯すことから守られ、罪を悔い改めることも学んだ。
純白はどんな小さな汚点も嫌う。ああ、
ほんの一滴の毒を垂らすだけでもクリスタルガラスは割れるという。
彼女は罪を犯したが、それはすべての人が罪人であるという
神の言葉が真実であることを、我々に証明するのに十分だった。
強い熱意が彼女の良心を浄化したので、
極端な真理は虚偽と紛らわしくなり、
犯していない罪も犯したことになり、罪の感じがすることでも、
時には本当の罪のようになるのだった。
天使たちは本来どんなものより速いのに、
モーゼによって翼を与えられたように、(注:5)
彼女の魂はすでに天国にあるのに、
悔悛の涙(注:6)という、人が使う普通の梯子で天に昇るように見える。
彼女がどれほど神にふさわしいものであったかは、
死が彼女を虚しく急がせたことを悔いていると語るだけで満足だ。
我々にふさわしく、言行一致し、優しく、
彼女の地位や名声通り、りっぱで、彼女こそ、
近頃の異端の説を正すのにふさわしい者はない。
すなわち、女性は友情を結ぶに値しないという説を。(注:7)
彼女がどんなに道徳的で、宗教的であったかを語るまい、
彼女の美徳を聞いて、彼女が老人と思われないように、
また、我々が死に加担して、このようにりっぱな獲物を得たと喜ばせ、
死の戦利品に加えることで、自慢させないためにも。
【訳注】
マーカム夫人は、ベッドフォード夫人の従妹であり、親友の一人でもあった。1579年に生まれ、1598年(19歳)にアンソニー・マーカム卿と結婚。マーカム卿は1604年12月10日、3人の幼い息子と妻を残して27歳で死亡。マーカム夫人は、トィックナム・パークのベッドフォード夫人邸で、1609年5月4日、亡くなった(30歳)。
注:1 「低俗な部分」とは、肉体のこと。
注:2 「天空の水」は、『創世記』1章8節にある「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」のこと。
注:3 「神の否定」は、「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(『創世記』9章11節)
注:4 「二つの死」は、肉体の死と魂の死。
注:5 「一対のケルビム(天使)は顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う」(『出エジプト記』25章20節)
注:6 「悔悛の涙」は天国に至るのに必要だとされていた。
注:7 イタリアの哲学者で新プラトン主義を唱えたフィチーノ(1433‐99)は、男女の間における低俗な愛より、男同士の友情こそ理想の愛であると説いた。
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