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ドームの頭頂部がすっぽりはぎ取られたような半円球の形をした舞台上には、今は使用されていない古い館の一室のような空間の、下手と舞台の真ん中に白いシーツの代わりに古毛布のような布をかけた、家具、調度品らしきもの。球体の後方の上部2カ所にも大きな絵画を覆い隠すように同じように布がかぶせられているもんがある。
開演時の暗転後、舞台が明るくなると上手側に一人の若い男。
男がそれぞれに掛けられていた布をはぎ取ると、下手側にあるものは、2個の大きなドラム缶。舞台中央にある調度品らしきものは、椅子に腰かけた男らしき人物。
さらに、若い男は脚立を取ってきて後方上部に掛けられた布を取り外すと、それは絵ではなく窓であった。
若い男はひとり黙々と動き回る。男は足が悪いようで、足を引きずるようにして歩いている。
その若い男と、椅子に腰かけて、それまで寝入っていた黒いサングラスをかけた年老いた盲目の男との会話が始まる。
二人の会話は、僕の記憶に何も残さず頭の中を次々と通り過ぎて行く。
二人の会話から、二人はお互いが存在することによってのみ生き延びているようである。
そして、ドラム缶にはさらに年老いた男と女。彼らは、盲目の男の両親であり、若い男は盲目の男の息子のようである。ドラム缶の二人は、事故で両足を失っていてドラム缶から抜け出すことも動き回ることも出来ない。盲目の男も椅子から一歩も動けず、下の世話から何まで若い男に頼っている。つまり、登場人物の3人は動くことが出来ず、若い男だけが足が不自由ながらも動くことが出来る。
盲目の男に指示(命令)されて若い男は望遠鏡で窓の外を見るが、何も見えないという。
が、ある時、小さな男の子が見えたというと、盲目の男は、その子は生きておることは出来ないだろうと言う。
劇は、この若い男と盲目の男の間の会話でほとんどが進んでいき、間に、ドラム缶から年取った男が顔を出す。さらにそのドラム缶から、彼の妻らしき年老いた女が顔を出す。
若い男は、こんなゲームは早く終わらせようと最初から最後まで言っているが、盲目の男の取り留めなく続く会話で終わることがなく、若い男は、意を決してその家を出て行く決心をしてトランクを持って今にも出て行きそうな格好でたたずみ、一方、盲目の男は若い男の返事がないとひとり語り続けるが、最後にはゲームが強制的に打ち切られるように、終わる。
会話は意味があるようでなく、延々と続き、観ている自分の方が、早く終わらないかな、と思うまでに倦怠感を引き起こす。
観劇後にプログラムを見ると、ドームのような舞台装置は、この舞台の美術を担当した小倉奈穂は、ドームを「脳」、二つの窓は「目」をイメージしているという。そうすると、登場人物の会話は脳内の意識活動のように感じられてくる。崩れかけたような半円球のドームは、戦争で廃墟となった跡のようでもある。そして、この舞台全体は世界の終末を思わせるようでもある。また、二つのドラム缶はゴミ箱だという。くもったガラス窓は、外の世界の不気味さを感じさせた。
ドームの外側の世界は、放射能か何かの毒物に満ちていて、そこから出て行くことは死を意味するようでもある。家の中にいても死を待つだけであるが、出て行けば、そこにあるのは死だけという世界。
中山求一郎が演じる若い男の名はクロヴといい、近江谷太朗が演じる盲目の男の名はハム、ドラム缶の男ナッグを田中英樹、女のナッグを佐藤直子が演じ、劇はこの4人の俳優で演じられた。
無機質な感想だけが残った。きっと、後からいろいろなことが思い出され、考えさせられることが起こりそうな劇であった。
プログラムによると、日本での初訳は安藤信也・高橋康成訳で、フランス語版から『勝負の終わり』とタイトルが訳されたが、今回の翻訳はベケット自身の英訳をもとに『エンドゲーム』と訳したということであるが、この舞台を見る限りでは、一種のゲーム感があり、後者の『エンドゲーム』の方が適切だと感じた。
上演時間は、休憩なしで、1時間30分。
作/サミュエル・ベケット、翻訳/岡室美奈子、演出/小川絵梨子、美術/小倉奈穂
5月30日(土)13時開演、新国立劇場・小劇場、
チケット:(シニア)3135円、B席LB23番
プログラム:1000円
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