チラシを見たときに、この講談は絶対聞き逃せないと思ってすぐに予約を入れた。自宅から会場まで片道2時間であるが、期待を上回る感動を得た。
前日、宮崎での地震(最大震度6弱)で、この日は南海トラフ巨大地震の注意報のさ中で、終演後の帰宅中の電車内で、神奈川での地震緊急警報が携帯に鳴り響くというおまけまでついた。
長崎に原爆が投下されて79年となったこの日、長崎市では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約3100人が参加し、過去最多となる100ケ国の地域と欧州連合が出席したが、式典にイスラエルを招待しなかったことから、米欧の大使が欠席するという異例の式典となった。
神田伊織の『被爆太郎の物語』は、まさにこの日のために記念すべきものであった。
この企画は、神田伊織講談会と昭和歌謡実行委員会の主催によるもので、前半は、「昭和歌謡の会」の有馬梨菜とマークの歌謡ショー、後半が神田伊織の講談という二部構成。参加者は地元の高齢者の方が大半だと見えるが、面白い現象として、毎月当会場で開催されている昭和歌謡ショーに参加している人が半数であとは初めてだという。そして、後半部の講談では、講談そのものを聞くのが初めてという人がやはり半数であった。
神田伊織の今回のネタは、いわゆる一般の講談とは全く異なるので、はじめてこの講談を聴く人は他の講談を聴くとその違いに驚くことになるだろうということを、マクラの方で語られた。
神田伊織の講談は、本題もさることながらそこに持って行くまでのマクラが非常に面白く、それを聴くのも楽しみの一つであるが、今回も期待が外れることがなかった。
今回のネタの元になっているのは、伊織がちょうど講談の世界に入った頃に偶然手にした故伊藤明彦の『未来からの遺言』で、長崎放送の記者だった著者が35歳で退職し、独力で全国の被爆者を訪ねて回り、その音声による証言を記録に残した。安定した仕事を投げ棄て、そのような活動を始めた著者とちょうど同じ歳頃に、伊織も安定した仕事を棄て、講談の世界に入り前座という奴隷の身(伊織の表現)に投じた自らに重なることに共鳴しただけでなく、その著書の内容そのものに深い感銘を受けたという。
著作権の問題もあり、講談の発表にも制約があるようであるが、幸いにもこの話に賛同を得て発表の機会を得られたが、伊織が語るように、この話しの舞台である長崎でもこのネタの講演会が開催されることを願っている。
話の内容は、伊藤明彦が被爆者の聞き取りで最も感銘を受けたある男性の話であるが、その話が余りにも整然としていることに伊藤は何か不安を覚えるようになる。被爆者から話を聞こうとしても、被爆の体験そのものを隠しておきたい人や、思い出して話すのも厭だという人、被爆者の話を商売の種にしいるのだろうと反感を抱く人たちと比べて、その男性の真に迫った話に胸を詰まされるだけでなく、深く感動させられる話であるが、その整然としたストーリーにかえって疑念がわいたのである。
その疑念は被爆者の証言の公的な記録を伊藤が手にした時、そこにその男性本人の証言を見て、本人から聞かされた話とまったく異なる事実に驚く。証言との裏づけに、伊藤は戸籍謄本や周辺の人物への書き取りなどで、伊藤が聴いた話とまったく異なることが判明する。
その男の話は、彼が入院している間に様々な人達の話を聞いて、それが自分の体験と折り重なってあたかも自分の体験のようにして一つのストーリーが作り出されたものであった。
伊藤が音声に記録した被爆者の数は千人以上にのぼり、それらを記録として編集してCDを作成し、各地の図書館に無償で寄贈したというが、反応(反響)は一つもなかったというが、ただ一人、彼の行為に感銘し、その後深く交際するようになった人物がいる。伊藤は2009年に72歳で亡くなるが、その人物も今年亡くなったという。
「被爆太郎」という名前は、民話の金太郎や桃太郎、浦島太郎などと同じく、語り継がれていく話の人物ということで、伊藤明彦その人が「被爆太郎」としての語り部であることがうかがえる。
伊藤に語ったその男性の話を、伊織の「語り」を通して聴くだけでも深い感動を受ける。
講談は、普通釈台に本を置いて読むので講談の語りを「読む」というのだが、伊織は常に本なしで語るので「読む」というより「語る」という方がふさわしい気がする。
この話しの伊織の語り口も、静かななかにもすさまじいまでの気魄がにじみ出て来て、ぐいぐいとその語りに誘い込まれて生き、会場内も水を打ったようにシーンと静まり返って、犯しがたい雰囲気であった。
110分を超す長編であったが、時間を忘れて聴き入った。
この話しを聞き逃すことがなかったことを最大の喜びとしたい。
8月9日(金)17時開演、横浜・桜木町、横浜にぎわい座・
地下2F,野毛シャーレ、木戸銭:995円
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