高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
 
    JAPLIN 第15回公演 『エイジ』             No. 2023-002

 話の筋は、主人公が現在から、父の時代、祖父の時代にタイムスリップする、空想科学的なファンタジー風の物語で、一見、この劇で何を伝えようとしているのか分からないように見えるが、その実、台詞の中に深いテーマ性を感じさせる表現が込められていて、観劇後、時間をおいてそのことに気づかされる。
 この劇を分かりやすく要約すれば、現在、過去、大過去の物語で、それぞれの時代を主人公の今現在の時、主人公の父の時代という過去の時、そして大過去は祖父の時代となり、それぞれの時代を一場、二場、三場として分けて見ることができる。しかし、この時代区分は実は主人公のためのものではなく、ヒロインである主人公の従妹のためのものであることが後で解けてくる。
 タイトルの『エイジ』は英語で記せば、'age'で、意味としては「(1)年齢、(2)世代;(個人が生きた)時代」といのが辞書に出てくる(リーダーズ英和辞典)。そして、この劇でのタイムスリップがヒロインのドキュメンタリー映画を撮ることから始まったことを考えるとき、第一場での会話を振り返って見ると、タイトルの意味が2番目の「(個人が生きた)時代」を表象していることが見えてくる。
 第一場の現在は、河野写真館での話。主人公の父が亡くなった後、その写真館を誰が継ぐのかという家族会議が開かれようとしている場で、本来なら主人公である長男の映介(砂押正輝)が継ぐのが当たり前(?)であるが、彼は撮影のために絶えず家を空けて旅に出ており、妹の優希(仁科ナナ)が写真館の切り盛りをしていて、映介は彼女が継ぐべきだと勧める。
 その妹が、写真家になるのを目ざして弟子入りしている鈴木さん(長堀純介)に写真の撮影の心構えを説く場面がある。その台詞はこの劇の重要なキーワードの一つでもあるが、要約すれば、写真撮影は被写体の心と一体となることが肝要であり、それは、石を撮るには石の心になって見る必要があるということに通じる。
 家族会議のために主人公の従妹の森下茜(藍梨)もやって来るが、彼女はなぜか心持ち元気がなさそうに見え、声も沈んだ調子である。彼女はテレビの人気キャスターであったが、今は休養中である。その彼女を直接目にすることができた鈴木さんが感動して、毎朝、感動と激励を受けていると伝えると、茜はこれまで映像での一方通行で画面の向こう側の反応が見えていなかったのが、目の前で聞くことができたことで逆に感動する。
 話はそれるが、このことは形は異なるが、このコロナ禍で観客との触れ合いがなくなり、演出家や俳優たちの嘆き、観客の反応がつかめなくなった昨今の演劇界の実情をも反映していると言える。
 その茜が映介に自分のドキュメンタリー映画を作って欲しいと持ちかける。その時の彼の台詞が、タイムスリップの鍵を解く重要なキーワードとなっている。それは、その人のドキュメンタリーを撮るということは、ただ単に、今現在のその人の姿だけでなく、過去にまでさかのぼって見る必要があるというのだ。そう言って映介は映像を撮り始めるが、そのファインダー越しに見る光景が、彼のことばを裏付けるように、茜の過去へとタイムスリップさせることになる。
 この一場では、さらに重要なことが含まれていて、家族会議に来ている茜は、その時間、自殺未遂で病院に運ばれていてそこにはいないということが、この一場の終わりのところで明かされる。そのことで、茜がなぜか元気ない姿で見えたかという理由も分かってくる。
 そして二場は(場面は切れ目なく連続して続いていくので、実際には一場とか二場の区別はなく、これは便宜的なものである)、映写技師である二人の父の葬式の場面で、茜の母である森下陽子役を同じく藍梨が演じ、陽子が茜を身ごもっている時へとワープする。
 映介役の砂押正輝は、この場面では映介と陽子の兄、雅紀を同時に演じ、会話の合い間ごとにその二役が交錯して演じられる。この場面の映介は茜の母陽子の甥であり、陽子の兄が映介の父で、亡くなった映写技師は映介の祖父ということになる。この場面では茜のドキュメンタリー映画のための過去を探るという関係で、母親の陽子が茜に代わってヒロインとなる。彼女を通してまだ生まれてもいない茜の過去が探索される。
 続く第三場は、茜の母陽子の少女時代。映介はこの場では、役割が変じて陽子の従兄、幸一郎役となる。
 時は、人類が初めて月の表面を歩くというアポロ11号月面着陸の1969年7月20日。この日、陽子の父である映写技師の河野茂蔵(鈴木吉行)は、この世紀の大瞬間を観ようと、大枚をはたいてカラーテレビを購入するものの在庫がなくてなかなか届かず、茂蔵はいらいらしている。茂蔵は職人気質の映写技師で、自分の気持ちを素直に伝えることができない不器用な夫であり父親で、妻の昌代(かとうずんこ)とはしょっちゅう夫婦げんかが絶えない。その喧嘩に悩まされているのが、少女時代の陽子。
 タイムスリップでワープした映介はその陽子を撮影しながら、ファインダー越しに見る少女時代の陽子が茜であることを発見する。映介は撮影のためにカメラを回してファインダー越しに見ることで、過去へワープしていったのだと、タイムスリップの謎が解ける。それは映介自身の言葉である、その人のドキュメンタリーを撮るためには、その人の過去にまでさかのぼって見る必要があるということを自ら体現し、表出していたことが見て取れる。
 夫婦喧嘩が絶えず、ついに家を出て行こうとした妻を呼び戻し、自分の非を認める茂蔵、そして世紀の大偉業月面着陸の放映にかろうじてカラーテレビが間に合い、家族そろってその場面を観ているところでこの劇は終わるが、そこで、感じるのは、変則的ながらも、家族愛、兄妹愛であった。
 この家族愛で思い出したのは、この劇の作者であり演出家である桒原秀一の前作、昨年11月に観劇したBow公演の『石川五右衛門』との関係であった。この劇の観劇日記に、豊臣秀吉と石川五右衛門とが兄弟であるという奇抜な着想の根底に、兄妹愛、家族愛のテーマがあると記している。
 まだこの二作しかこの演出家の作品を観ていないが、彼の根底にあるテーマの一つが家族愛にあるのではないかと感じさせられた。そのことは彼の劇団JAPLINの旗揚げの際のことばに、「異世代間による共創」をテーマに演劇活動するとあることから、そこに鍵を見ることができるような気がした。
 ついでながら、JAPLINという劇団を立ち上げながら、別にBowという劇団を立ち上げた理由についてアフタートークで彼に質問させてもらった。
 話のついでに、パンフレットにある演出家と出演者の一言に対してコメント。
まず、演出家の桒原秀一の「挨拶」の弁、「人は一人で生きているわけではなく、必ず誰かとの繋がりの中で生きていて」、それは「横の繋がりだけでなく、縦の繋がりも大事」だと語っているが、この劇はまさにそのことをタイムスリップを通して体現させ、表出している。「観劇後に、この物語は一体何だったんだろう?と思う人いるかも知れません」とあるが、いえいえ、そんなことはありません。自分なりに読み解いて、興味深く、楽しく観劇(感激)させてもらいました。
 主役の砂押正輝君、「日常とフィクションの間に起きるドラマがユニークで、それぞれのキャラクターが生き生きとそこに存在している」―その通りでした。出ずっぱりで一人二役、ご苦労様でした。
 「私も人生のリセットボタンが押せるなら今すぐにでも押したい」というヒロインの茜を演じた藍梨さん、劇中で人気のニュースキャスターから転身を図って心身ともに追い詰められ、そのあげく自殺未遂するまでとなりましたが、実人生でくれぐれもリセットボタンを押し間違えないように。第一場の茜、二場の茜の母陽子、三場の陽子の少女時代のキャラクターの演じ分け、見事でした。
 「作品の影響で一眼レフにはまった」主人公の妹役優希を演じた仁科ナナさん、役にはまっただけでなく弟子の鈴木さんへの写真撮影の助言(前述)が説得力をもって聞こえました。
 一場に登場する映介の学生時代からの親友正一役の高野将大君、「この作品の中で撮る側と撮られる側という一個のキーワードがあります」は、この作品のことをよく押さえていますね。「俳優活動していて売れない」ことを悩む必要はまったくないですよ。見る人は見ています。
 一場と三場で異なる鈴木さん役の長堀純介君、「『エイジ』を見て、何かを感じたり、残ったりするものがあったら幸いです」―この観劇日記に書いている通り、きちんと残っていますよ。
 第二場で映画館の従業員で、後に映介の母親になることを予想させる吉川麻美役の田代結香さん。「自分の観たいものが観れる、これは演劇の大きな醍醐味の一つ。創り手の意図とは違ったとしても、誰を観たって良いし、何に想いを巡らせても良い」―はい、その通り、正論ですね。自分なりの見立ての感想を書きました。
 陽子の夫、森下直哉を演じる小川哲也君、「劇中で、とても大事な事を聞き漏らしていた事が分かります」―ホントに、大事な事を結構聞き漏らしていることを、いつも痛感しています。反省!
 第三場で、融通の利かない頑固おやじを演じる鈴木吉行さん、「『エイジ』は出演者、スタッフが魂を込めて創り上げた「家族」の物語です」―この最後の三場で、この劇が家族の愛の物語であることを、鈴木さんの演技を通して感じさせられました。アフタートークで息子さんからの思わぬ飛び込みの質問で、実際の「お父さん」は劇中の茂蔵とは異なり、「優しい父」ですという息子さんの言葉から、真逆の演技を見事に演じた証拠を見た気がします。シェイクスピアでは数多くの主役を演じてきた鈴木さん、今後とも、齢(エイジ)を重ねるごとにバイプレーヤーとしての存在感を大いに発揮して下さい。
 最後になりましたが、存在感はずっしりと重い茂蔵の妻役、昌代を演じたかとうずんこさんのことば、「この作品を観ていただいて、少しでも響くところがありましたら嬉しいです」―十分に響きましたよ、「息子思いの母親」、「家族のためにひたすら頑張るところ」がよく出ていました。
 アフタートークでもユニークな質問が出て、人それぞれの感想や思いの違いが面白く、結構楽しく聞かせてもらった。その中で、演出家からの弁として、この劇の初演では、今回のメンバーとは全員まったく別の俳優で、しかも茜役と陽子役、映介と雅紀は一人二役ではなく、別々の俳優が演じたということである。前回の公演を観ていないので比較はできないが、個人的には今回の二役での演出の方がよいと思う。別々の俳優が演じれば、そこで時間的、空間的な遮断が生じて、連続性が失われるような気がするからである。
 OFF・OFFシアターという狭い空間ならではの濃密な舞台であった。
 上演時間は、休憩なしで1時間45分。

 

作・演出/桒原秀一
1月31日(火)14時開演、下北沢・OFF・OFFシアター、チケット:4500円、全席自由席

 

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