高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
 
    Bow第9回公演 『石川五右衛門』               No. 2022-028

―「祝言」に奔走する人物のそれぞれの生き方と家族愛劇―

 史実、虚実盛り合わせの時代劇スペクタル・エンターテインメント。前半部の終わりで主人公の石川五右衛門が弟の秀長に切られて死んでしまう(?!)。タイトルロールが劇の半ばで死んでしまうとは、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』と同じかと思ったが、石川五右衛門は釜ゆでで死ぬのではなかったかと思い返し、後半部がどうなるのか楽しみとなる。
 舞台は、さと姫が野卑な言葉丸出しで両脇に控える家臣にその言葉遣いをたしなめられている場面から始まる。この情景の意味合いはこの劇の最後まで見てみるとよく理解できるのだが、この場ではどういう状況なのかよく分からない。その謎を残して舞台は急速に展開していく。
 奇想ともいうべき発想は、石川五右衛門が豊臣秀吉の弟という設定で、この劇はある意味ではその豊臣家、というより木下家の、秀吉を長男にして、次男の吾郎吉(後の石川五右衛門)、三男の秀長、妹のさと、母親のなか(後の大政所)、父親の竹阿弥の、それぞれの兄弟愛、夫婦愛、そして家族愛の物語と言える。
 そしてこの3人の兄弟・妹の「祝言」にそれぞれの人物が奔走する。最初は秀吉の妻となるおねとの祝言に至るまでの障害、次は吾郎吉が遊郭の女、お瀧との祝言に至るまでの障害、そして最後はさとが家康との祝言を前にしての場となる。この3つの祝言そのものは舞台上では可視化されない。
 秀吉の祝言の障害は、秀吉が戦勝するまでは主君信長の許しが出ない。吾郎吉の障害は、見受け金百両の用立てと、彼自身が弟に切られて死にかけたことに加え、彼が死んだと思ってお瀧が兄の秀吉に奪われた形になってしまうことから、兄弟の間に埋まることのない溝が生じてしまうという障害。最後が、祝言という言葉自体に喜びにひたっているいるさとの祝言の実態は「人質」であるが、本人はそのことをまったく自覚しておらず、母親のなかの大政所が彼女に付き随うことを決意する。
 これらのことを劇の芯にして、歴史上の虚々実々の人物や出来事が次々と現れ、最後の石川五右衛門の釜ゆでの刑の大詰めへと突き進んでいく。又佐こと前田利家、織田信長、明智光秀、森蘭丸、蜂須賀小六、猿飛佐助、服部半蔵、石田三成等々が次々と登場する一方、「本能寺の変」などが舞台上の大きなハイライトとして描かれる。
 兄弟愛の見せ場は、大詰めの「釜ゆでの刑」を前にしての五右衛門と秀吉兄弟の確執の台詞のやりとりの場。秀吉は何とか五右衛門の罪を赦そうと苦心するが、五右衛門は「分かっていない」と言って秀吉の言葉をはねつけ、お瀧と共に釜の中に身をゆだねる。
 五右衛門を捕らえて釜ゆでの刑にすることを強硬に主張する三成は、秀吉と五右衛門の関係を知っているかのようにさえ感じられ、その強硬さと冷徹さをむき出しにする辻創太郎の演技も見どころの一つであった。
 出演は、主演の石川五右衛門に庄田侑右、お瀧に大竹一重、豊臣秀吉に三上潤、秀長に砂押正輝、秀吉の母親なかに蓬莱照子、父親の竹阿弥に鈴木吉行、前田利家に荒木秀行、石田三成に辻創太郎、織田信長に南武杏輔、その他、ダブルキャストを含めて総勢36名。
 上演時間は、途中休憩10分を含め、2時間50分。


脚本・演出/栞原秀一
11月13日(日)13時開演、両国・シアターX、(チケット:6500円)、座席:A列6番

 

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