高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
 
   劇団俳優座ラボ公演 『ムッシュ・シュミットって誰?』     No. 2022-013

 眼科医のジャン=クロード・ベリエが妻と二人で食事をしている最中に突然の電話。ないはずの電話のベルの音に二人はいぶかるが、テーブルの下に電話が―。
 妻に促されて恐る恐るジャンは電話を取ると、相手は彼のことを「シュミットさんですか?」と尋ね、ジャンは当然のごとく否定する。
 しばらくして再び電話。相手はまたしても「シュミットさんですか?」と尋ね、そんなことが度重なってジャンは警察に電話をかけるが、タクシー会社につながってしまう。警察の番号を聞こうと電話案内の局番に電話をしても見当違いの動物愛護団体につながってしまう。
 部屋の周りを見渡せば、書棚に並べてある本もすべて変わっていて見覚えのない本ばかりである。クロゼットを確認すれば見覚えのない他人の服ばかりである。
 もしや部屋を間違えたのかと部屋を出ようとすると扉が開かない。その鍵を使って入ったにもかかわらず、扉は開かない。
 そこへ突然警官が現れ、ドアを開けるように言われるが、ドアが開かないため管理人がドアを開け、部屋に警官が入ってくる。
 警官の服装の色が異なるのでどうしてか尋ねると、ここはフランスだと思っていたらルクセンブルグで、警官はジャンのことを「シュミットさんですか?」と尋ね、自分の名前まで変わってしまっている。それだけではなく、シュミットは眼科医ではなく、皮膚科医だという。
 身分証明書を求められ、警官とひと悶着した後しぶしぶ差しだすと名前がシュミットになっている。
 警官にフルネームを尋ねられても、ジャンには返事ができない。ジャンは身分証明書を盗み見して自分の名前を何とか答えるが、妻の二コルは彼のことを常にクロード・ベリエと呼んでいるので怪しまれるが、二コルはいつもその愛称で夫のことを呼んでいると言い逃れる。
 ここで不思議なのは、妻の二コルが夫を名前ではなく、常に姓のクロード・ベリエと呼んでいることであった。妻が夫を名前ではなく、姓で呼ぶこと自体が実はおかしいのだが、劇を見ている間はそこまで気づかなかった。
 ジャンの精神状態に疑問を抱いた警官は精神科医を寄こす。
 そして次には、覚えのない息子カールまでが登場する。
 結局ジャンは、自分をシュミットだと自己納得させ、カールを囲んでの親子3人の食事中、妻とカールにシュミットとしての自分がどんな人物であるかを尋ねる。
 妻の二コルは申し分のない立派な人物として語るが、息子のカールはジャンのことをくそみそにこきおろす。ジャンはそこで自分はシュミットであると自己認定し、食卓を外して奥の部屋に引き込む。
 しばらくして、銃声の音―。
 しかし、妻の二コルも息子のカールも驚かず、そのまま食事を続ける。
 ジャンが戻って来て、「ジャン・クロード・ベリエは死んだ」と告げる。
 舞台はここで暗転して終わりかのように見えるが、再び最初の光景に戻る。
 最初の場面と少し異なるのは、この光景を管理人、精神科医、警官が舞台の外周から見つめていることである。しかも息子のカールはそこでは白衣を羽織っており、それぞれの人物がカルテのようなものを手にしていることである。
 食事中に、同じように電話がかかり、今度は「シュミット」ではなく「シュワルツ」に変わって、ジャンは「シュワルツではなく、私はシュミットです」と答え、そこで舞台が暗転―。
 この劇の冒頭部を見ている間、余りの唐突的な馬鹿々々しさについて行けない感じであったが、段々と精神分裂症患者の話を見ているような気がしてきて、ジャンが患者で、その他の人物は彼の対症療法の医師たちと思われるようになった。その気持ちは今でも変わらないのだが、この劇を評したものを見ると、「深刻なテーマをコミカルに描いた不条理劇」、「同調圧力がテーマのブラックコメディ」とある。
 「同調圧力」とは、自分とは違う判断基準、価値観を押しつけるもので、その同調圧力からいかに自分のアイデンティティを守るかかがテーマだと言う。
 僕が観たこの劇の感想は、精神病患者の対症療法の一場面としての感じであった。
 出演は、ジャンに田中茂弘、妻の二コルに斉藤深雪、警官に関口晴雄、精神科医役は当初脇田康弘の予定であったがコロナ感染で志村史人に交替、カールに丸本琢郎、台詞がまったくない管理人に関山杏里の6名。
 上演時間は、休憩なしで1時間55分。出/五戸真理枝

作/セバスティアン・ティエリ、翻訳/中村まり子、演出/小笠原響
6月15日(水)14時開演、俳優座スタジオ、チケット:4000円、座席:1列24番

 

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