高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
 
   新国立劇場公演 シリーズ「声」 Vol. 3 『貴婦人の来訪』     No. 2022-012

 議論、正論、極論、批判、対話の「声」シリーズ第3弾で、シリーズの最後となるこの劇で感じたのは、あるいは想像したのは、少し別のことであった。
 物語の架空の町ギエレンは、かつてヨーロッパで一、二を争うほど、産業で栄え、ゲーテも泊まったという文化の町でもあった。それが今では町の財政は破綻して、精錬所も休止し、働く場所もなく、かつては特急も止まった駅も、普通列車が一日にわずか2本止まるだけで、町の人々は通過していく国際列車をむなしく眺めて見送るだけである。なぜそんなことになったのか、一切説明がないが、話の展開の中でそれがヒロインの貴婦人の遠大な謀りごとであったことが想像されてくる。
 この町の出身で、今は大富豪となっている貴婦人クレール・ツァハナシアンの来訪が知らされていて、町の人々は彼女を歓迎するのぼりまで用意して待っているが、止まるはずのない特急列車が突然ギエレンの駅に止まり、人々は何事かと驚く。
 町長をはじめ、町の人々はこの町の出身者であるその貴婦人からのなにがしかの寄付を期待しており、貴婦人はその期待に応えるかのように町と市民に十兆を差し上げると言う。そしてその条件に「正義」が果たされることを要求する。人々はその「正義」の意味に戸惑い具体的な内容を尋ねる。
 その正義とは、自分を裏切ったイルを殺すことであった。45年前、クレールは17歳でイルは20歳。二人は恋人同士であったが、彼女が妊娠するとイルはその子供の認知をしないばかりか、二人の少年に裁判で彼らの子供であると偽証をさせる。クレールは町を出て娼婦にまで身を落とすが、彼女の赤毛を気に入った大富豪と結婚して億万長者となり、その後も次々と夫を変えていく。
 クレールは自分を捨てたイルだけでなく、偽証した二人の少年、町そのものにも復讐の気持を抱き続け、見つけ出した二人の少年の眼をえぐり出し盲目にし、その時の裁判長を高給で釣って彼女の執事としている。
 僕の想像とは、かつて栄えたギエレンがなぜ没落したのかということであるが、それは彼女の言葉、「精錬所はもうわたしのもの」ということに暗示されているように思われる。彼女は周到に町の産業を買収していき、その活動を停めてしまうことで人々は必然的に職を失っていき、町は税金も入らず財政破綻してしまった、というものである。
 45年間の間に周到な用意された後、最後の仕上げが自分を裏切ったイルを殺すことであった。
イルが殺されるまでの過程が、このシリーズのテーマとなっている「声」の、議論、正論、極論、批判、対話が繰り拡がれていく。イルの殺害の評決は直接民主主義としての市民集会によって決定される。その間の人々の心の変化が「正義」とは何かということに皮肉をもたらす。そこに大いなる喜劇性を感じさせる。
 チェーホフ以来、「喜劇」の定義が変ってしまったと思うが、この劇もヒロインである貴婦人の相手、ヒーローのイルが最後に死んでしまう(シェイクスピアの時代であれば、ヒーローが死ぬ劇は「悲劇」である)が、作者デュレンマットの主張通り、皮肉と苦みを伴った「喜劇」としてとらえられる。
 劇の要所要所で挿入される歌が、自分んにはブレヒトの『三文オペラ』のように思え、その喜劇性を増幅した。
 出演者が豪華で、ヒロインの貴婦人に秋山菜津子、イルに相島一之、イルの妻に文学座の山本郁子、町長に俳優座の加藤佳男、牧師に文学座の外山誠二、執事に青年座の山野史人、駅長・医者に福本伸一、教師に津田真澄など、総勢16名。
 上演時間は、途中休憩15分を入れて、3時間。


作/フリードリヒ・デュレンマット、翻訳/小山ゆうな、演出/五戸真理枝
6月8日(水)13時開演、新国立劇場・小劇場
チケット:(シニア・B席)3135円、プログラム:800円、座席:LB列25番

 

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