高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
 
   夢のれんプロデュース公演 Vol. 3 『戯曲推理小説』          No. 2022-011

~ ローズマリーの赤ん坊のように ~

 テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』で始まり、チェーホフの『三人姉妹』の幕切れで終わる、地方の市民劇場の楽屋裏を舞台にしたサスペンス劇。推理小説のサスペンスのスリリングとちょっぴりコミカルさを感じさせる緊迫感のある舞台であった。
 「鬼熊」とあだ名される主演の看板女優・清原ぎんを演じる槇由紀子の迫真の演技に杉村春子を感じさせるものがあり、見どころたっぷりで、最後まで気を抜けず見入った。
 清水邦夫のタイトルが魅力的で詩的心情をそそられるのだが、『戯曲推理小説』のサブタイトルとしての「ローズマリーの赤ん坊のように」との関係にも詩的な幻想を感じさせられる。
 開演とともに、舞台上では『欲望という名の電車』のブランチとスタンリーが取っ組み合いをしており、舞台下手には片手にワイングラス、もう一方の手には煙草を持った一人の女性がそれを見ているところから始まる。
 その女性は、ちょうど一年前、この同じ市民劇場で自殺した清原ぎんの妹えりで、ぎんは上演中の舞台上でえりの亡霊を見て驚き、スタンリーと衝突して舞台で倒れてしまう。ここでドラマのテーマが二つに分極する。
 一つは主題としての清原えりの自殺の謎の展開で、今一つは、主演のぎんが妹の亡霊を見たことで精神の安定が損なわれ、舞台を続けることができなくなったことから派生する、劇団員の集団脱退問題が起こってくることである。この劇団員の集団脱退問題は、以前から計画されていたものが、ぎんの事故が引き金となって顕在化したものに過ぎない。
 ぎんが舞台に立てないと言ったことから、ステラ役の清野にブランチ役をと、演出補の小早川ばくや劇団員一同がぎんを説得しようとするが、ぎんは応じない。死ぬまで主役の座を渡さないぎんの、女優としての執念と情念を演じる槇由紀子の演技に杉村春子を見る思いがした。劇団員はぎんの実力を認めて愛してもいるが、憎みもしている。これが脇筋の一つのテーマとなっている。
 一方の主筋は、ぎんの妹えりの自殺が、他殺なのか事故なのか、それともやはり自殺なのか、という問題が、えりの亡霊とえりが離婚したかつての夫と息子の出現によって、夫婦と親子と姉妹の愛憎と確執が交錯して展開されていく。えりの亡霊は姉のぎんだけにしか見えず、ぎんが冠の前でえりに話しかけてゐる時の様子は、ハムレットが母ガートルードの前で父の亡霊に話しかけている時を彷彿させる。
 えりの死が思わぬことからその真実が露見し、えりの息子小太郎は父親・木村冠をナイフで刺してしまい、冠はその傷が元で死んでしまう。
冠は亡霊となってぎんの前に現れ、そこでえりとぎんと冠の三人ががチェーホフの『三人姉妹』の最後の場面の台詞を語り合う。
 マーシャ(冠)、「ああ、あの楽隊の行進曲!あの人たちは去っていく。・・・生きていかなければ・・・生きていかなければ・・・」
 イリーナ(えり)、「いずれは、なぜこういうことがあるのか、なんのためにこういう苦しみがあるのか、わかる時がくる、私たちにはかくされていた秘密が秘密でなくなる時がくる。でもそれまでは、生きていかなければ・・・」
 オーリガ(ぎん)、「楽隊はあのように華やかに演奏している―あれを聞くと生きたいという気持ちが湧いてくる!ああ、それにしても時は流れ、私たちも永遠にこの世を去ることになる。・・・なぜ生きているのか、なんのために苦しむのか・・・それがわかったら、それがわかったら!」
 ぎんとえりと冠が肩を寄せ合ってこの台詞を語る最後が象徴的で、しみじみとした気分となり、忘れられない。
 出演は、主演の槇由紀子のほか、えり役に宮嶋みほい、木村冠に須藤正三、木村小太郎に小林司、演出補の小早川ばくに眞藤ヒロシ、ステラ役の清野に中坂弥樹、ほか、総勢13名。
 上演時間は、休憩なしで1時間40分。
 文中の『三人姉妹』の台詞は、白水ブックスの小田島雄志訳を借用。

【追記・訂正】
開演冒頭の登場者はスタンリーではなく、ミッチの間違いでした。この舞台にはスタンリーは登場せず、録音の声だけが登場ということでした。出演者より誤りをご指摘いただきました。


清水邦夫/作、大谷恭代/演出
6月4日(土)13時開演、中野・劇場MOMO、チケット:4200円、全席自由席


写真は、槇由紀子さんのフェイスブックから許可を得て転載

 

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