高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
 
    夢のれんプロデュース vol. 2 『明日そこに花を挿そうよ』       No. 2021-009
 

 この公演は、昨年のちょうど同じ時期に予定されていたのがコロナによる緊急事態宣言でやむなく中止されていたもので、今回も同じ状況となったが無事に上演することができたが、4月15日にこの劇の作者清水邦夫が永眠され、図らずも追悼公演のようになった。
 はじめタイトルを見た時しばらくの間、「あすこそ花を挿そうよ」と思いつづけていて、それが「明日そこに」であることに気づいたとき、「そこに」がどこなのか気になった。
 その間違いだけでなく、舞台の終盤でこの台詞が発せられた時、「あす」ではなく「あした」と発音されたことに新鮮な驚きを感じたが、この台詞を聞いたとき、自分が取り違えた「あすこそ花を挿そうよ」もふさわしいように感じた。
 この戯曲が書かれたのは1959年、昭和34年であるが、時代風景は昭和20年代を感じた。
 その理由は、劇中での「石炭拾い」であるが、自分にもその経験があり、それは自分が4、5歳の頃の昭和20年代前半のことだった。
 今どきの人には「石炭拾い」など死語でしかないだろうが、この言葉一つだけで時代風景を感じてしまう。
 一階と二階の出入り口を同じにする一軒の家屋に二つの家族が居住し、一階には二人の兄弟とその父親が住み、二階には病気の娘とその母親が暮らしている。
 客電が落ちた後、暗転した舞台に鋭い音がするが、それがカナリアの鳴き声であったことがあとで分かる。
 病気で寝たきりのチー子、長男で旋盤工の灸、小児麻痺で足が少し不自由な弟の右太の3人と、酒なしでは一日とて過ごせない父親の修造、そして頼る男なしでは過ごせない母親のお米は、それぞれが閉塞した鬱屈感に埋もれた日々を送っている。
 ある意味では時代の閉そく感とも言えるが、半世紀以上前の作品であるものの、時代を超えての閉そく感を感じるために、今でもこの劇に共感を感じ取ることができるのではないかと思う。
 3人の若者にとってはカナリアが、修造とお米の二人は酒と男によって閉そく感の鬱屈から逃れようとしている。
 詩情的で現実世界の重量感を感じさせないチー子の台詞、それだけに彼女が最後に「明日そこに花を挿そうよ」と叫ぶ声が逆に肉声を帯びて聞こえる。
 カナリアを通して「生きる」切々さを中坂弥樹が透明感のある清明さでチー子を演じたのが印象的であった。
 内面にマグマを抱え込んだような全身怒りといった灸を演じた長井将孝、すべてのマイナスを背負ったような意志薄弱の右太を谷口天基、満州時代の過去を美化することで現実を逃避して酒におぼれている修造を山谷勝巳、男にすがることでしか生きることの現実を保てないお米を槇由紀子が、それぞれに迫力ある真に迫った好演技で、緊迫感にあふれる舞台であった。
 「明日そこに花を挿そうよと言った後チー子が死に、灸のナイフが誤って腹に刺さってあっけなく修造が死んでしまう最後は、救いようのない重みを背負ってしまう気に陥って、その気持ちがずっと後を引く。
 出演は、ほかに、さいとうはるか、平塚正信、須藤正三をいれて、総勢8名。
 灸、チー子、右太、修造、お米、源十の役がダブルキャストで、2チームによる上演で、組の上演を観劇。
 上演時間は、1時間50分。

 

作/清水邦夫、演出/大谷恭代
5月29日(土)13時開演の部、中野・テアトルBONBON、チケット:4500円


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