高木登 観劇日記2021年 トップページへ
 
   劇団俳優座公演 『正義の人びと』                No. 2021-001
 

 いま、この時期に、なぜ、このような作品を上演するのか、というのが最初に感じた感想であり、疑問であった。
 コロナ感染が拡大している中で、昨年来カミュの『ペスト』が多くの人に読まれているが、この『正義の人びと』は『ペスト』が刊行された2年後の1949年12月15日に初演されている。
 『正義の人びと』は、ヴォリス・サヴィンコフの『あるテロリストの回想』(1909年:岩波原題文庫版で『テロリストの群像』)の第2章を下敷きにしており、劇中の登場人物、イヴァン・カリャーエフ(劇中では愛称のヤネクで呼ばれている)もドーラも実在の人物で、事件も1905年、ロシアのセルゲイ大公を爆破で暗殺した実際にあったことがもとになっている。
 カミュがこの作品を書いたときの時代背景とその動機もさることながら、日本で、いま、なぜ、この作品を上演することにしたのか、というのが冒頭にあげたように自分の頭から離れない。
 そのような疑問を抱えていたので今回はこれまでの観劇方法とは異なり事前の予備知識を入れておこうと下調べをしていたが、その中で非常に参考になったのが上智大学文学部名誉教授の西川宏人の2007年5月27日の講演録「『正義の人びと』―愛と正義と死と―」であった。
 その中で、この作品の原作の冒頭にはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の4悪5場の中の台詞'O love! O life! Not life but love in death'(ジュリエットが薬を飲んで仮死状態にあるのを見てパリスが彼女の死を嘆く台詞)が書き込まれているということが紹介されていた。
西川名誉教授がアテネ座で観たという舞台ではこの台詞はカットされていたというが、今回の舞台でもこの台詞はなかった。
 タイトルにもある「正義」も重要であるが「愛と死と生」はこの劇の重要なモチーフとなっているので、この冒頭の台詞には相当な重みがあると思う。
 「正義」の背景となっている「テロリズム」について考えてみよう。
 『正義の人びと』では、人民の困窮の元凶を大公という一人の人物に集約して、彼を抹殺することがすなわち人民の解放になるという短絡的な思想が根底にある。
 現代との比較で考えると、近くは9・11に象徴されるように、テロが無差別に行われているというところが大いに異なるが、根本的なところではどちらも解決にはならないということであり、残るのは「恨み」と「憎しみ」だけであることはすでに証明されている。にもかかわらず、それが繰り返されているというのが現状である。
 一人の人間を殺しても社会は変らない。ましてや無関係の人間を巻き込んではなおさらのことである。
 『正義の人びと』では、大公という一人の人間を殺すことで社会は変るということを信じている。その代表的なのが詩人でもあるヤネクである。
 ヤネクは大公爆破暗殺実行の当日、大公の乗っている馬車に子供が乗っているのを見て爆破を思いとどまる。
 この子供の問題では面白い対決がある。
 同志であるステパンはヤネクが子供を犠牲にすることが出来ない思いとどまったために、より多くの子供たちが飢えに苦しむことになるとヤネクを責めるのがその一つである。
 今一つは、ヤネクが二度目の機会に大公爆殺に成功して捕らえられ、監獄にいるとき大公妃が彼のもとに尋ねて来る。
 大公妃は、ヤネクが一度目の襲撃時、馬車に子供が乗っていたことで計画を思いとどまったことを既に情報として知っていた。そのうえで、その子供たちは大公の甥と姪で、彼らは民衆との接触を汚れると言って手を触れようともしないが、大公は民衆と一緒になって酒を酌み交わすほどその中に入っていっていたことを語る。
 一個の人間として見た場合、少なくとも大公妃の立場から見れば子供たちより大公のほうがより人間的である。
 西川名誉教授によれば、「正義の人びと」とは、「正義を愛する心の持ち主」で、マタイ福音書5章3節にある「心の貧しきもの」のことだという。
 正義はその立場の人々によって異なり、相対的なものであることがこの劇を通して感じられることである。
 それは対立関係にあるもの同士だけの相違であるばかりでなく、ヤネクとステパンに見られるように主義主張を同じくする同志の中でも異なる。
 ステパンは詩人としてのヤネクの理想主義的正義と激しく対立するが、それは彼が監獄で体に受けた鞭打ちの刑の身体的恥辱と屈辱からくる憎しみが根底になっている。そのことは彼がドーラにその鞭打たれた背中を出して見せることによって可視化される。
 正義と共にもう一つの重要なテーマである「愛と死」については、ヤネク(カリャーエフ)とドーラの関係で表象される。その一部を西川名誉教授の講演録から引用すると、

 ドーラ 「あなたは、孤独のなかで、やさしい心で、エゴイスティックに、私を愛してくれる?たとえ私が不正義だったとしても、愛してくれるかしら?」
カリャーエフ 「たとえ不正義であっても、それでもきみを愛することができるとしたら、ぼくが愛するのは今のきみとは違うきみなんだ」
 ドーラ 「もし私が組織の一員でなかったとしても愛してくれるかしら?」

 この劇では本音と建前が交錯するが、その大半が建前といってもいい中での本音の声であるといってもいい個所である。
 この後のドーラの台詞では建前が先行するようになる。
 ヤネクが処刑される日、仲間の党員たちはヤネクが裏切って恩赦を受けるのではないかと疑心暗鬼である中、ドーラは、ヤネクは死を選ぶと毅然として主張し、「正義を立証する」ためにも彼は死ぬべきだという。
 しかし、彼女の心の奥底ではヤネクに生き延びてほしいという願いの気持が本音の部分としてある(ドーラを演じる荒木真有美の演技にもそれが表れていた)。
 カミュがこの作品を書いたときの世界情勢と現在との関係において、そしてそれをいま舞台上演することの意義について、重い課題を課す舞台であった。
 出演は、ドーラの荒木真有美のほか、ヤネクに斎藤隆介、革命的社会党のリーダー、ボリスに千賀功嗣、ヤネクと常に対立するステパンに田中茂弘が憎々しい役を好演、大公爆殺実行の日、実行から逃げ出してしまうアレクセイに八柳豪、警察長官スクーラトフに河内浩、大公妃に若井なおみ、囚人フォカに塩山誠司、看守に杉林健生の9名。
 上演時間は、途中休憩15分をはさんで2時間30分。
 前半部は大公の爆破までで、舞台は革命党員のアジトの一室でのやりとり、後半部の前半はヤネクが収監されている監獄内、その後再び、革命党員のアジトの場面で、西村名誉教授のいうフランスの伝統的古典悲劇の舞台構成。

 終演後、制作部のイソノウツボ司会で、演出の小笠原響、主演の斎藤隆介と荒木真有美の3人のアフタートークが約30分間。冒頭に今回の舞台装置について、アンケートの感想からイソノより演出の小笠原に質問が出された。小笠原によると、美術担当の土岐の最初の案では、背景にいくつもの柱を立て、その柱に無数の椅子を掛けて、大公の馬車爆破の場面(実際には音響のみ)で、その椅子をどっと落とすという仕掛けであったが、牢獄のイメージを重ね合わせるということで重厚な可動式天井を設けて、圧政のイメージを重ね合わせるという趣向を取ったということであった。
 主演の二人にとっては、同じ劇団員の関係にあっても小笠原の演出を受けるのは初めてであったことや、コロナ禍でのマスクを着けたままの稽古などの苦労話など、また、演出の意図など興味深い話を聴くことが出来た。

 

作/アルベール・カミュ、訳/中村まり子、演出/小笠原響、美術/土岐研一
1月24日(日)14時開演、俳優座劇場、チケット:4800円、座席:2列8番


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