高木登 観劇日記2020年 トップページへ
 
   俳優座公演 No. 343 『火の殉難』            No. 2020-012
 

 コの字型に三方を客席が囲む舞台。コロナ感染対策もあって観客席数は60席ほどで、平日のマチネということもあって満席までにはなっていなかった。
 亡くなってすでに50年が過ぎた高橋是清の養祖母喜代子が寝間着姿の是清の前に現れ、是清を幼年時代の名前の和喜次で呼ぶ。是清は、祖母にアメリカ留学や学校教師、事業の失敗など苦労を重ねたが、その都度人に助けられ、官僚として活躍した後、日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣にもなり、自分は「運のよい人間」だと語る。
 昭和11年、夜も更けたころ、家族団らんでくつろいでいる蔵相高橋是清邸に、取材を求めて経済記者の神田が訪ねて来る。
 神田の質問に答える形で過去の出来事が錯綜されて高橋のこれまでの業績と活躍が舞台化され、その一方で昭和11年2月26日、2・26事件の当日に向かって青年将校二人の会話が合間々々に挿入され、緊迫した舞台が展開していく。
 歴史上の人物を主題にした劇ということで史実を変えることは出来ないので結末は分かっているが、劇の展開の中で高橋是清という人物像やその業績について知らなかったことを多く教えられる劇でもあった。
 農商務官僚の時代、特許局を創設し初代局長として特許制度を整えた功績もその一つであった。
 原敬暗殺の後、原の遺志を継いで立憲政友会の総裁と総理大臣を引き継ぐが、彼はトップとしてよりトップを助ける立場の方が向いているようで、時の総理を助けて大蔵大臣を7度も務めることになったのがそのよい例であろう。
 犬養毅内閣のときに、余人に代えがたいとして請われて7度目の大蔵大臣になった時は数えで83歳であった。
 神田記者が最後の訪問で、国防予算の軍備費縮小はむしろ国力増強のため拡大すべきではないかという主張に対し、是清は真っ向から反対を述べる。
神田はこれまでの好意に謝意を表して是清の家を辞す。
この時点で神田記者のこれまでの高橋是清訪問の思惑が伺い知られる彼の態度であった。
 二人の青年将校の前に軍服姿に変えた神田記者が野田大尉として現れ、高橋を奸賊として討つべしと二人に命じる。彼は、高橋是清を討つべきかどうか、彼の考えを探るべく変装していたのだった。
 自分は「運のよい人間」だという「だるまさん」の愛称で親しまれた高橋是清を河野正明が魅力ある晴朗な人物を演じ、是清の養祖母喜代子を俳優座の大御所岩崎加根子が貫録を示し、是清の妻品子を坪井木の実、是清の長男是賢を川井康弘、その妻愛子を山本順子らがしっかりとわきを固め、原敬を島英臣、犬養毅を加藤佳男、是清のかつての部下で政敵となった井上準之助に谷部央年らが史実の一面を如実に描き出し、神田記者に渡辺聡がサスペンス的存在として演じるほか、総勢14名の出演。
 高橋是清という人物とその家族を通して、昭和の一時代の側面を肌身に感じさせる、ずっしりとした濃密感のある舞台であった。
 高橋是清の「運のよい人間」だと語る言葉は、ヘロドトスの『歴史』(松平千秋訳、岩波文庫の一節を思わずにはいられない。
<人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差し控えねばなりません。いかなる事柄についても、それがどのようになってゆくのか、その結末を見極めるのが肝心でございます>(巻1、32節)
 アテナイのソロスがサルディスのクロイソス王に語る言葉である。
 高橋是清は自ら語るように幸運な人生であったと言えるであろうが、その最後は幸福であったであろうか?!
 その答えは、観客の一人一人に委ねるに任せられる。
 上演時間は、途中15分間の休憩を入れて、2時間40分。

作/古川 健、演出/川口啓史、美術/乗峯雅寛
11月10日(火)14時開演、俳優座劇場5階稽古場、チケット:4800円(シニア)


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