高木登 観劇日記2019年 トップページへ
 
    新国立劇場・「ことぜん」シリーズNo. 1 『どん底』         No. 2019-032
 

 先週の土曜日(10月12日)に観劇する予定が台風19号の影響で休演となり、チケットを取り直ししての観劇。
 「個」と「全体」を考えるシリーズ「ことぜん」の第一弾。
 新国立劇場・演劇芸術監督の小川絵梨子の「あいさつ文」によると、「ことぜん」は、「個と全」で、個人とそれに対する全体(国家、民族、社会、共同体、団体、会社、集団、組織など)との関係について考える企画だという。
 観劇後の感想として、個と全を考えるにあたって百年以上前の『どん底』は、その第一弾を飾るにふさわしい作品と思える演出であった。
 工事現場の物置を思わせる舞台装置で、両サイドは金網のフェンスが張られ、ホリゾントには配管と壁に据えつけられた梯子、周囲には脚立やパイプで組んだ足場、そして積み重ねられた簀子板。
 舞台の照明、客電もついたまま、舞台上にカジュアルな服装の面々が集まって来て、その場所を使って久しぶりに劇を演じるために、工事現場の周囲を片付け、簀子板で簡易ベッドを拵えたりなどして、舞台監督らしき人物の合図で、板付きで舞台が始まる。
 内容としては決して明るくない劇であるが、その舞台からは照明の明るさもあって、『どん底』の持つ暗いイメージが払拭された、苦みのある陽気さで、チェーホフ的喜劇性を感じさせるものがあった。
 ひとつの例として、錠前屋ノクレーシィの妻アンナが死んだ場面では、当の死人であるアンナがベッドから抜け出して、そのベッドにあたかも人が寝ているかのように毛布で覆い、自分はそのベッドの傍らで膝を組んで座って、そのベッドをじっと見続けていたのは、自分の死を客観化した喜劇としてとらえることができる。
 また、登場人物の一人一人が悲劇的でありながら、そこはかとなく喜劇的でもあるのも喜劇性の現れであった。
 どこか神秘的な巡礼者の老人ルカは、キリストのパロディとして考えるのも面白い見方になる。
 1幕目が終わった後、2幕目では役者たちが出払っている間に、その場所は「工事中立入禁止」の立て看板が立てられ、舞台全面に進入禁止の黄色いテープが張られていて、舞台前方に工事現場の休憩用としての椅子が3個ほど置かれていて、2幕目は、登場人物がその椅子に座って自分の物語を語るところから始まる。
 娼婦のナスチャが自分の恋愛の悲劇の結末を語り、男爵はそれを彼女の作り話の妄想と片付け、男爵の昔の栄華の話に対してはナスチャが嘘っぱちとして二人の争いとなるが、老人ルカがその中を割って入る。
 この2幕では、地図上のどこにもない「真実の国」のルカの話と、壁に「人間」という文字を大書するサーチンの人間論が大きなテーマとして浮上してくる。
 チェーホフ的喜劇性の締めくくりは、木賃宿の亭主コスティリョフの妻ヴァシーリアの策略にはひっかかるまいとしていた泥棒のペーペルが口論の末コスティリョフを殴り殺してしまい、その目撃者として訴えたヴァシーリアも妹のナターシャの証言で二人とも監獄行きとなり、ヴァシーリアの叔父で警察官のメドヴェージェフは、水餃子売りのおばさん、クヴァシュニャの亭主となって女房の尻に敷かれる。
 最後は、「俳優が首を括って死んだ」という報告の、悲劇的喜劇的結末。
 舞台設定を工事現場での劇中劇とした五戸真理枝の演出の意外性が「全体」としての見どころの一つでもあり、演じる役者たちの個性が「個」としての見どころの劇で、昔の話ではなく現代に相通じるものがある劇であった。
それを結び付けるものが、現代の工事現場という舞台設定に現れていた。
 出演は、木賃宿の亭主コスティリョフに山野史人、その妻ヴァシーリアに高橋紀江、妹ナターシャに滝内公美、警察官メドヴェージェフに原金太郎、泥棒のペーペルに釆澤靖起、錠前屋のクレーシィに伊原農、娼婦のナスチャにクリスタル真希、巡礼者の老人ルカに立川三貴、サーチンに廣田高志、ほか、総勢18名。
 上演時間は、途中休憩15分間を入れて、3時間。

 

作/マクシム・ゴーリキー、翻訳/安達紀子、演出/五戸真理枝。美術/池田ともゆき
10月19日(土)13時開演、新国立劇場・小劇場
チケット:(A席)6600円、座席:D5列2番、プログラム:800円


>>別館トップページへ