高木登 観劇日記2018年 トップページへ
 
   第12回 Japlin公演 『今日と明日は同じ未来』        No. 2018-042
 

公演初日の前日、出演者の一人から案内をもらって、折よく初日のみ予定があいていたので観劇できた。
興味深い内容で、また、面白く、また出演者の演技もよかったので、日程の都合がついてラッキーであった。
縄文時代と現代を交互に交錯させ、しかも二つの出来事を見事なほどに関連性をもたせ、劇の構成と着想が素晴らしく、大変楽しく、わくわくしながら観ることが出来た。
物語は、縄文時代の女性の人骨がほぼ完全な形で発見され、それをドキュメンタリー特別番組として放送するために取材班とレポーターが発掘現場に赴いたところから始まる。
発掘調査に携わっている女性の考古学者、西園寺准教授(櫻井志保)が取材班に説明するところによると、長い日本の歴史の中で戦争が一度もなかったのは、この縄文時代と現在の平成の30年間だけだという。
縄文時代は12,000年続いたといわれるが、その間、一度も争いがなかったのが、弥生時代が始まると縄文人は忽然と消え失せてしまい、どこへ消えたか未だに解明されていないとも話す。
平和な縄文時代が終焉を迎えるのは、稲作を生業とした弥生人の出現による。
稲作の為には土地を必要とする、その土地をめぐって弥生人は戦争をもたらしたというのがこの劇の中で暗示される。
縄文人は狩りで生計を立てていて、集団の規模も百人前後と小さく、バドゥ(黒川進一)を長とするマキクの一族は、火山の噴火や狩りで命を落とした者たちでその人数も激減し、集団としての命運も風前の灯となっている(縄文人消滅の暗示)。
マキクの一人、コルタ(上杉英彰)は噴火の火砕流で両親を目の前で失ったトラウマから狩りが出来なくなり、マキクの領域の外に追放となる。
コルタをひそかに愛しているバドゥの娘シュリ(平松香帆)は、山の怒り(噴火)を鎮める為にマキクの巫女ナヌルク(かとうずんこ)によって山の生贄に決められるが、決行の当日、バドゥはシュリを連れ出し、追放されたコルタに託そうとする。
しかし、マキクのシャイガン(長堀純介)が通じていた遠い国のダイリス(柴田元)によって、バドゥは殺され、コルタも殺されるが、彼は傷つきながらもシュリを守ってダイリスを倒し、シュリに「生きろ」と言って命果てる。
マキクの一族の衣装と、ダイリスの衣装が異なり、ダイリスのそれは弥生人を表象しているかのように純白で、彼が遠い国からやってきたのはマキクの土地を奪うための下見であったが、殺し合いをしない縄文人のマキクと異なり、彼は目的のためには平気で人を殺す。
一方、現代の登場人物、縄文時代の遺跡追跡の取材班の中のレポーター、松田百合子(田中香子)の夫は、外国での取材撮影中、テロリストに襲撃されたとき、妻の百合子をかばって亡くなっていることが、劇の進行中に明らかにされるが、この松田百合子の夫と、マキクのコルタの最後の台詞が同じ「生きろ」であった。
ダイリスは、百合子の夫を殺したテロリストに重なり、百合子に恋する取材班のディレクター児島(日笠圭)は、シュリを横恋慕するシャイガンと重なる。
物語は、取材班と縄文人の話が交互に展開するのだが、最後にこのように一点で結ばれる。
縄文人が何処へ消えてしまったか不明であるが、西園寺准教授は言う、「縄文人のDNAの核と現在の日本人のDNAの核が一致しているのよね」と。
縄文時代のDNAの核と現代人のDNAの核が同一であることをドラマチックに表象化した劇であった。
出演は、他に現代の取材班のカメラマン遠山に小林翔と三波の奈良有里子、そして縄文人コルタの妹に亀上空花。
上演時間は、休憩なしの1時間40分。


作・演出/桒原秀一
11月27日(火)19時30分開演、下北沢・小劇場楽園、チケット:3500円


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