シェイクスピア以外の観劇記録・劇評

 

2017年10月の観劇日記

024 7日(土)13時開演、終わりの会・第1回公演 『スティルネセ・ストラップ』

作・演出/つつい きえ
出演/(チームみかん)石井麻衣子、石渡未紀、かくたなみ、和海アキ+山本恵太郎
中野新橋プライムシアター、料金:2800円(前売り)


【観劇メモ】
退屈紛れにトランプ遊びなどで時間をつぶしている4人の魔女が、聖域として守っている「土地」に一人の男が引っ越してきたことから始まる。
男の招待で一番年下の魔女が偵察目的でその招きを受けて男の家みちを訪問するが、男は人を殺したい欲求から人の多く住む都会から逃れて来たのだが、その魔女が自分の欲求を満たしてくれそうだと、眠り薬の入ったお茶を出し、眠ったと思ったところで魔女の首を絞めて殺す。
ところが魔女は死なないことになっていて、いくら殺してもすぐに生き返ってしまうことから、男は彼女を自分の欲求を満たしてくれる女神として不眠不休で殺しを続け、最後にはそのために男自身が死んでしまうという話。
その間、他の魔女たちは『マクベス』の魔女の台詞をそのまま語って暇を興じる。
そして、ちょっぴり緊張感を感じさせるのは、一番年長の魔女が秘匿していた魔女を殺すことをできる魔法の短剣が紛失していたのに気づき、魔女の一人がネットのオークションで売っていたことが分かる。
それを買った者は、なんとその引っ越して来た男であったが、何事もなく取り返してしまうので少し拍子抜け。
作者によれば、タイトルにあるスティルネセは、フィンランドにあるスティルネセ・メモリアルという美術館に由来し、17世紀の魔女裁判で処刑された犠牲者を弔う記念慰霊碑だという。
そうであれば、その話に関連した物語であればもっと違った面白い話になりそうだと思い、残念な気がした。
上演時間は、45分。

 

025 13日(金)15時開演、みみよりの会・第3回公演 『好色一代女』

原作/井原西鶴、脚色・演出/武内紀子
出演/関根絹世、こばりかずみ、上原かずみ、楽士(尺八演奏)/戸川藍山
両国門天ホール、料金:2500円

【観劇メモ】
日本の古典の朗読ということで、しかも出演者が3人ということでどのような朗読形式になるのかと思っていたところ、当日配布されたプログラムに「連れ語り」とあり、出演者の一人がワキの役となっていた。
関根絹世とこばりかずみが老女役で連れ語り、上原かずみがその老女を訪ねて話を聞くというワキを務める。
話の内容は、事前に本を読んでいたので懐かしいような気持で聴くことが出来た。
日本の古典をこのような形で楽しむことが出来たのは、大いなる収穫であった。
上演時間は、1時間15分。

 

026 13日(金)19時30分開演、『風の声 秋の音』

出演/(朗読)北村青子、(うた)白神直子、(ピアノ演奏)葛岡みち
南青山・live space ZIMAGINE、料金:2800円

【観劇メモ】
朗読の会も色々な形で楽しむことが出来るものだというのが、今回の経験であった。
最初にあったのは『風の声 秋の音』と題しての北村青子の朗読で、最初は内容も分からず、ただひたすら聞いているだけであったが、あとの方になって何となく全体の構成がつかめたような気がした。
前半部は、太田省吾の作品と石原吉郎の詩から引用して構成されたもので、後半部の内容は武内紀子の作品2つからとって妄想劇として構築したことを、朗読の後、朗読者本人から説明があった。
後半部は、白神直子の歌と葛岡みちによるピアノ演奏でのライブで、妄想のテーマと、今年50周年を迎えたリカちゃん人形などさまざまなものをピックアップして紹介し、その中に筒美京平がいて彼の代表曲の歌なども歌ったりと、これまた朗読会として初めての形式の出会いを楽しむことが出来た。

 

027 14日(土)18時半開始、蔀英治・磯田恵子 朗読の夕べ N.o.2 『更け行く秋の中で』

(第一部) 生と死とまぼろしと~時の味わいに (磯田恵子)
 「ソネット」60番 W. シェイクスピア
 「早春」 H. V. ホーフマンスタール、他1篇
 「田舎の時計」 萩原朔太郎
 「冬の金魚」 新川和江
 「ミラボー橋」 G. アポリネール
  自作朗読 「記憶」 「六十七回目の秋」 「エピローグ」

(第二部) ヴォルフガング・ボルヒェルト(鈴木芳子訳)を読む
 「パン」 (蔀英治・磯田恵子)
 「たんぽぽ」 (蔀英治)
 阿佐ヶ谷・喫茶ヴィオロンにて。料金:1000円(コーヒー付き)

【観劇メモ】
蔀英治と磯田恵子による今年4月の「朗読の夕べ~ふたたびの春に寄せて~」に続く2回目の朗読会。
第一部の磯田恵子による簡潔な解説を交えての詩の朗読は、その解説内容が的確でそれ自身をも楽しんで聴くことが出来る。
選んだ詩人としてはホーフマンスタールのみがこれまで読んだことのない詩人で、あとは全部自分が愛読してきたことのある詩人だったので、選ばれた詩に関心があった。
シェイクスピアのソネットは別にして、萩原朔太郎の「田舎の時計」は今年6月に日本マイム研究所の公演会で演じられたマイム、萩原朔太郎の「時計」を思い出し、非常に興味深かった。
アポリネールの「ミラボー橋」は堀口大学の訳詩とフランス語での暗唱を昔試みたことがあるだけに楽しんで聴かせてもらった。
最後に自作の散文詩を朗読し、結びに彼女の人生に出会ったさまざまな師への感謝の言葉が心を温かくしてくれ、彼女の人柄を感じさせてくれた。
第二部の朗読の前に、若くして亡くなったヴォルフガング・ボルヒェルトについて、当日、翻訳者の鈴木芳子氏が来られていて人物と作品について解説があり、非常に参考になった。
ボルヒェルトは、第二次大戦に従軍して、そこで銃の操作を誤って指を自傷したのが、兵役拒否とみなされ銃殺刑の判決で3年間の独房生活をおくることになり、終戦後、釈放されても歩行すら困難な状態の中で、手書きした原稿を父親がタイプライターで清書したという。
極限の状況に置かれた人間の緊迫感が作品の中に現れている。
「パン」という短い作品は60代の老夫婦の話で、夜中に物音で目を覚ました妻が台所の方に行くが何ごともなく、夫がいるだけであった。二人は、物音は家の外からのものだったと何事もなかったように寝室に戻るが、妻はそのとき皿に目が行くが、何も語られないままであった。寝室に戻った二人は眠ろうとするが寝付かれないまま妻は夫の手前寝たふりをして寝息を立てる。すると夫が規則的に物を咀嚼する口の動きがするが、その規則的な音で本当に寝入ってしまう。
翌朝、妻は夫にいつもは6枚のパンを3切ずつ分けるのを、自分は2つだけでいいと言って夫に余分に与える。そこには何の説明的なものはないが、痛いほど感じさせるものがある。
わずか27歳で亡くなった若者が60代の老夫婦の事をこれほど見事に描き切っていることに驚きを感じさせる作品である。
「たんぽぽ」は作者の独房生活の内面が赤裸々に感じさせる作品であった。
独房から出されて、広場を歩かされる時、いつも前にいる男の存在がきになってしょうがないが、男は決して後ろを振り返らない。その単調な繰り返しの中で、主人公は道端のたんぽぽに気付き、それが彼の唯一の生きる楽しみのようになる。あるとき、そのたんぽぽを手に入れようと心の準備をしていると、その時に限ってそれまで後ろを振り返ったことのない前の男が突然振り返ったかと思うと倒れてしまい、そのまま絶命してしまい、タンポポを呈入れようとした計画が脆くも崩れる。・・・
朗読会の後の反省会と称しての打ち上げ飲み会での参加者の声では、ボルヒェルトの作品に対する絶賛の声が多かった。

 

028 22日(日)14時開演、文学座公演 『鼻』

作/別役 実、演出/鵜山 仁、美術/乗峯雅寛
出演/江守 徹、渡辺 徹、得丸伸二、沢田冬樹、金沢映子、栗田桃子、千田美智子、増岡裕子
紀伊國屋サザンシアター、(チケット:6000円)、座席:7列9番(今回は7列目は前から3列目となっていた)

【観劇メモ】
別役実の作品は通常不条理劇と言われるがこの作品に関しては、むしろ世の中の仕組みの不条理性のことを考えさせられたのは、この劇の背景にある、患者を長期入院させておくと病院はもうからないので長期入院患者に嫌がらせをして転院を余儀なくさせるということの方に感じた。
「鼻」といえば、シラノ・ド・ベルジュラックだが、この劇もそれに関連する。
修道院が経営する病院に「将軍」と呼ばれる長期入院患者(江守徹)がいて、その患者を転院させようとするところが事件の発端。この病院はすでに別の病院の長期入院患者を受け入れていて、その代わりにこの将軍をその病院に送り込むことになっている。
将軍はかつて舞台でシラノ・ド・ベルジュラックを演じたことがあり、病院の庭の木に「付け鼻」をぶら下げさせていて、それが毎日増えていくのが滑稽味を感じさせる。
彼は舞台で付け鼻を付けて演じているために、日常でも鼻を付けていないと自分を出すことが出来なくなっており、そのために恋人を失ってしまったため、付け鼻なしで舞台に立ち、舞台をぶち壊しにして首になったのだった。
彼と入れ替わりに入院してきた老女が、彼女の付き添いの娘(実の娘ではないが娘ということになっている)を通して彼のかつての恋人だったということが分かってくる。この老女は声だけの出演で、声の主は杉村春子。
病院長は男が将軍であれば転院する必要はないということになるが、彼はそれを否定して出て行くことにする。
老女の付き添いの娘、将軍の付き添いの自称「孫」や、彼を将軍と呼ぶ男など、周辺人物の関係が非現実的な不条理性をなす。
最後に出て行く決心をした将軍を演じる江守徹が車椅子から立ち上がって、訥々として語る姿が心に残る。
上演時間は、1時間15分。

 

029 28日(土) 14時開演、サロンdeお芝居 No. 2 『痴人と死と』

作/ホフマンスタアル、翻訳/森 鴎外、演出/島川聖一郎、美術/中村慎一
出演/(第一部)湯川美波、(第二部)高橋正彦、河村まこ、小春千乃、森 秋子、やなぎまい、
久野壱弘
ヴァイオリン奏者/五十嵐歩美
阿佐ヶ谷ワークショップ、参加費:2000円

【観劇メモ】
第一部では、湯川美波がホフマンスタアルの詩2編(「早春」と「人生の歌」)の朗読と、第二部の前説としてホフマンスタアルの生涯(1874-1929)や作品に関して概説がされた。
第二部の『痴人と死と』はホフマンスタアルが19歳(1893年)の時の作品で、この詩劇の翻訳者である森鴎外は明治44年(1911年)11月の日記に、この劇の初演を家族とともに観たことを記しているという。
観劇でまず感じたことは、言葉遣いや表現が少しも古くなく、違和感なく受け入れられたことである。
物語は、これまで自由奔放で贅沢三昧の青春を謳歌していた主人公クラウヂオの元に死に神が訪れ、その時になって初めて彼は自分がほんとうの生活をおくっていたのではないという後悔の念に駆られ、まだ死にたくないと死に神に命乞いをする。
そんな彼の元に、亡くなった彼の母親、妻、そして彼が裏切った友人が現れ、彼らの言葉を通して彼のこれまでの生きざまが明らかにされる。
彼はそうして夜明けを前にして静かに息を引き取る。
世紀末の退廃的官能美を感じさせる詩劇で、現代ではまず顧みられることのない作品を観劇できたということ自体が貴重な体験であった。
出演は、主人公クラウヂオに高橋正彦、家僕に河村まこ、死神に小春千乃、母に森秋子、妻にやなぎまい、友人の男に久野壱弘(登場順)。
それぞれの登場人物に出演者の持つ味わいがあったが、中でもクラウヂオの母を演じた森秋子にウィーンの貴族としての気品を感じた。
主演の高橋正彦と演出の島川聖一郎は、学習院時代の『ハムレット』「十二夜」以来47年ぶりのタッグと記されていた。
上演時間は、一部、二部を通して1時間。

 

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