高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

7月の観劇日記
 
020 19日(土) シリーズ同時代 『まほろば』

作/蓬莱竜太、演出/栗山民也、美術/松井るみ
出演/秋山菜津子、魏涼子、前田亜季、三田和代、中村たつ、黒沢ともよ


新国立劇場・小劇場

 

【観劇メモ】

シリーズ・同時代の最後を飾る第3作目。

プログラムの「まほろば」考に、新国立劇場演劇の芸術監督である鵜山仁が、

「勝てば官軍、・・・国立は確かに官だけれど、僕らが歌うのは、むしろ敗者のエレジー、引かれ者の小唄、はみ出し者のばか騒ぎなのだ」と記している。

突然ともいえる芸術監督のニュースを知った後だったので、この鵜山仁の巻頭言が生々しかった。

芸術監督に就任して間がなく、これから本領発揮ではないかと思っていただけに信じられなかった。

うかがい知る範囲では、ほとんど理事長の遠山敦子の独断の暴挙であったように思われる。

鵜山仁は続けて書いている。

「「まほろば」とはそういう確執を包み込み、ごった煮にして、新しい生命をはぐくむ場所、早い話が僕らの「劇場」のことなのだと、これはあまりにも手前味噌な思い入れかもしれないが、今後とも、この「まほろば」で美しい、楽しい確執をかもし続けたい・・・」

解任ではないが、それに近いような人事に対する抵抗をそこに感じ取ることができる、というのはうがった見方であろうか。「確執」という表現に、悔しさと無念さがにじみ出ているような気がするのだ。

交代の理由が、鵜山仁が多忙すぎて現場とのコミュニケーションが十分できていない、というのがその表向きの理由になっているが、理由にも説明にもならない一方的なものだと思う。

この国は、「まほろば」というにはあまりに対照的で、今度の事件(?!)によって、この言葉がアイロニーとして虚ろに響くのだった。

劇が始まる前にこんなことに思いをめぐらしながら新国立劇場に対して一人憤然としていたのだが、『まほろば』を見ているうちに、鵜山仁は官軍に対して、まさに美しく、楽しい確執をかもしだして、声には出さない抵抗を示しているようで、胸のすく思いがした。

舞台は、とある田舎町。そこの旧家、藤木家の祭囃子のある日の一日のできごと。

その前夜、長女ミドリ(秋山菜津子)が東京から突然帰ってくる。しかも正体不明になるまで酔っ払って。

母ヒロコ(三田和代)は、その長女になんとしても結婚して、藤木家の跡継ぎをと始終口にしている。男なら誰でもいいようなそんないい加減さを演じる三田和代に、思わずのけぞって笑い出したくなるようなおかしみがあふれる。

母娘たちの台詞のバトルの中で、おっとりとした祖母を演じる中村たつが対照的なだけにその存在感を感じさせる。

セックスや生理や「閉経」の話など大人の会話に傍若無人に口を出す近所の子どもマオ(黒沢ともよ)が、最後の場面で、初めての生理があって、それまでの傍若無人さととってかわったような、悄然とした様子で、戸惑ったようなその表情がなんとも言えず印象的で、うまい終わりかただと感心した。


 

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