高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

5月の観劇日記
 
011 10日(土) 小島章司フラメンコ2008 『越境者』

原案・演出/小島章司、構成・振付/ダビ・ロメーロ、小島章司、音楽/チクエロ、フラビオ・ロドリゲス
美術/堀越千秋出演/ダビ・ロメ-ロ、エバ・サンテイアゴ、ルベン・カスターニョ、小島章司、北原志穂、他


俳優座劇場


【観劇メモ】
第1部「往還」と第2部「移りゆくフラメンコ」の2部構成。
第1部は、ルベン・カスターニョが扮する旅人が、夢の世界の旅へと連れ立ってくれる。
「往還」とは、旧大陸のスペインから新大陸のキューバ、アルゼンチンなど中南米に伝わって、再びスペインに還ってきた曲、カンテ・デ・イダ・イ・ブエルタ(cante de ida y vuelta)を意味する。歌曲の越境である。
キューバの民衆、物売りたちが、明るく、華やかな楽園の世界を感じさせた。
フラメンコは、北原志穂をはじめとした小島章司フラメンコ舞踊団と、エバ・サンテイアゴが踊る。

第2部になると趣ががらりと変わる。

ダビ・ロメーロと小島章司の二人の越境者がたどる暗黒の世界。
「忘却」から始まり、ダビ・ロメーロのフラメンコに始まって、小島章司が和して踊る。
ダビは、最初男性の衣裳であるが、踊っている最中に鏡の横の衣裳掛けにかけている女性用ドレス、バタ・デ・コーラに気づく。
その衣裳は、だれかの形見のように感じさせる。
ダビはそれをまとって踊り始める。
そこへ、同じくバタ・デ・コーラをまとった小島章司が登場。
ダビの黒色のバタ・デ・コーラと対照的に、小島章司は純白。
二人のバタ・デ・コーラを着て踊る姿は一対の鳥のよう。
やがて二人はそれを脱ぎ捨て、男性の姿に戻って再び踊り始める。
夢幻の世界に引き入れられたように・・

ネルーダの詩代表作『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』の15番目の詩、
「黙っているときの君が好きだ ここにいないみたいだから
君は遠くで僕の声を聞いている なのに僕の声は君に触れない
・・・・・」
の朗読に誘われて、ダビが踊る・・・・
だが、僕は夢幻の世界を彷徨っては現実の世界に戻って目覚めるのだが、見ることの緊張と集中力が数分とは続かず、再び夢幻の世界に落ち込む。
ああ、僕にはネルーダの詩の舞台での朗読の声がまったく記憶にないのだ。
(それは夢の中に消えてしまった)。

小島章司の、すべての無駄を排除した求道者の姿が現代詩を体現する。
フラメンコを求め、祖国日本を離れた小島章司その人が、越境者でもあった。
暗黒の世界は、小島章司の内部の叫びでもある。
内面から外面への越境。
そして再び内面へと深化していく―往還。
小島章司は、現代詩の体現者であることを再認識させられる。


012 15日(木) 新宿梁山泊公演 『リュウの歌』

作/コビヤマ洋一、演出/李潤澤、演出協力/金守珍
出演/金守珍、コビヤマ洋一、三浦伸子、渡会久美子、大貫誉、沖中咲子、藤田傳、染野弘孝、他

紀伊国屋ホール

観劇メモ】
人間の記憶ほど不確かなものはない。
というより自分の記憶力のなさにいまさら情けない気がする。
だから、自分にはこの観劇日記の意味がある。

この『リュウの歌』は昨年の1月、新宿梁山泊の20周年記念を祝してコビヤマ洋一の3作品連続上演の最後に公演された。
それは韓国の劇団コリペによる韓国語による上演であった(ことはまったく忘れていた)のに、その台詞(は字幕スーパーであった)を鮮明に生の言葉として記憶している(気がするのだ)。
言葉がほとんど理解できなかった、と日記には書いているのだが、今回見ていて、台詞を含めて演技全体の記憶が鮮明に甦ってくるのだった。しかも、新宿梁山泊の形で・・・・
客演の原爆ジジイを演じる藤田傳が、ぽつりと語る「地平線が見える。焼け野原の向こうに地平線が見える」というその台詞までが、前回日本語で聞いていたような記憶として甦ってくるのだ。
ただ、下北沢のザ・スズナリに較べて圧倒的な広さを持つ紀伊国屋ホールでの上演は、この劇団が持つ濃密さが希薄化されたような空気で、なんとなく覚めた気分であった。
この劇団には熱気でむんむんした劇場(あるいはテント)の雰囲気の方が似合っている。
人間の記憶の不思議さを反芻させられた。

 
013 17日(土) 劇団青年座公演 『評決』

作/国弘威雄・齊藤珠緒、演出/鈴木完一郎
出演/山野史人、平尾仁、井上智之、田中耕二、名取幸政、原口優子、他

青年座劇場


【観劇メモ】
来年の5月から、裁判員制度が始まる。
その意味でも時機を得た上演といえ、作品の内容的にも興味深いものだった。
この劇を観て感じた一番の感想は、陪審員として人を裁く立場に立ったとき、過去を含めた自己がさらけ出されるということだった。それが見事なまでに表出される。
12名の陪審員たちを演じる俳優たちが、登場人物の出自に合わせて個性的に演じることで、彼らに対する反感や同感など、見ている自分たちの感情移入も重なってくるのだった。
写真館の木村陪審員(山野史人)は一番物知りであるだけでなく沈着であるが、それでも評決での意見が衝突したときに一時的に感情的になる、そこが人間的であって面白い。
古物商の坂本(山口晃)は、自分の体験からくる偏見を一番露骨に表わし、自分と反対意見が出るとすぐけんか腰になる短気な性格、見ていてこちらが憎らしくなって腹が立ってくるうまさがある。
退役陸軍大佐の大島(田中耕二)、40歳を過ぎて初めての赤ん坊がこの裁判中に生まれそうになっている床屋の若松(平尾仁)、「赤」の嫌疑で学生のとき警察の取調べで拷問を受けた過去を持つ円タクの運転手岩切(小豆畑雅一)、化粧品外交員の高井(大家仁志)、などなどそれぞれの職業と、それぞれの過去、現在の自分というものが、陪審員としての評決を下そうとするとき、さらけ出されてくる。
百姓の田代(川上英四郎)は、最後の最後まで「自分にはわからない」といって評決を下せないでいるのだが、証拠物件のマッチが雨でしけっていたら火はつかないのではないか、という疑問をトイレで思いつく。
それまで絶対有罪だと信じていてそのことを主張してやまない大島は、日露戦争で自分の経験から一度しけったマッチは火がつかないという。
ということから、その証拠物件のマッチを擦ってみるという実験が法廷でなされる。
証拠物件のマッチは、雨の日、公園のゴミ箱に捨てられていたというにもかかわらず、いくらやっても火がつくのだった。
それまで評決が割れていたものが、マッチが警察の捏造証拠だったということで、陪審員は無罪の評決で一致することになる。
この素人の素朴な疑問が意見の相違を一致させる端緒となる場面が、このドラマの山場ともいえる。

休憩なしの2時間の上演時間。


014 22日(木) 文学座公演 『風のつめたき櫻かな』

作/平田オリザ、演出/戌井市郎、装置/石井強司
出演/田村勝彦、八木昌子、加藤武、川辺久造、外山誠二、坂口芳貞、新橋耐子、他

紀伊国屋サザンシアター


【観劇メモ】
近未来の東京に直下地震が襲った1ヵ月後の早春の頃。
全壊を免れた喫茶店が営業を再開し、そこが今では避難所暮らしをしているその地区の商店街の主人たちの憩いの場となっている。幾分落ち着きを取り返してきて、商店街で例年行っている花見を今年はどうするかということで、意見が分かれている。それを軸にして、そこに商店街の人々の人生ドラマが波紋のように繰り広げられる。
その喫茶店によそ者のなぞの人物(坂口芳貞)がやってきて、彼がコーヒー代に置いていった現金が桜の花びらに変わっていたということで、「桜の精」と呼ばれるようになる。彼は阪神大震災で亡くなったとおぼしき人物で、現実のような、現実でないようなシュールな存在がユーモラスである。
この作品は、関東大震災の20日後の「銀座復興」をドラマにした久保田万太郎の作品を本歌取りして、平田オリザが独自の世界を作り出している、という。久保田万太郎へのオマージュともいうべき作品。

中国の四川省で大規模な地震があったばかりでもあり、現実とドラマの乖離を感じざるを得ないが、もちろんこのドラマが書かれたときにはそんなことは夢にも考えていなかっただろう。

それだけによけいに現実の生々しさを考えさせられる。

休憩なしで2時間の上演時間。

 

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