高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

4月の観劇日記
 
005 1日(火)劇団民藝公演 『浅草物語』

作/小幡欣治、演出/高橋清祐、装置/内田喜三男
出演/奈良岡朋子、日色ともゑ、大滝秀治、他

東京芸術劇場・中ホール

 
006 5日(土) 劇団夜想会公演 『三人姉妹』

作・アントン・チェーホフ、翻訳/小田島雄志、演出/野伏翔、美術/皿田圭作
出演/原田大二郎(ヴェルシーニン)、石村とも子(マーシャ)、大嶺麻友(オリガ)、和田幸奈(イリーナ)、山前麻緒(ナターシャ)、内山森彦(チェブトイキン)、石山雄大(フェラポント)、倉田秀人(クルイギン)、他

紀伊国屋ホール

【観劇メモ】
マイケル・フレインによれば、チェーホフが三人姉妹の住んでいる田舎町の名前をあげていないが、その精神的な本性は、「流刑地」であると説明している。今回、そのマイケル・フレインの英訳の翻訳(小田島雄志)を読み返してみて、これまでとは違った親しみ、近しさを感じた。そして、この夜想会の『三人姉妹』を見て、チェーホフが語る、このドラマが深刻なものではない、軽い喜劇だという意味が何となく感じられるようになった。

今、「そこ」に生きている(彼らにとって、今住んでいるところは永遠に「ここ」ではない)彼らは、決してたどり着くことのない「モスクワ」を夢見ている。モスクワは希望であり、願望であり、生きることから絶望を救う夢である。

そして彼らには「今」という時もなく、彼らにある時間は、二百年、あるいは三百年先の未来があるだけ。そしてその未来の人たちは、彼らを振り返ってその不幸な生活を思いやるであろうことを感じる。

チェーホフがこの劇を書いてまだ百年と少ししか経っていない。もう百年、あるいはもう二百年したら、チェーホフの言葉が本当の意味で理解できるようになるであろうか・・・・

この日、旺なつきがきていて、僕の真後ろの席に座っていた。

夜想会代表で演出家の野伏翔が僕と同じブロックの最後列にいた。

 
007 12日(土) ASC第37回公演 『恭しき娼婦』

作/ジャン・ポール・サルトル、翻訳/芥川比呂志、演出/彩乃木崇之
出演/日野聡子(リッジー)、鈴木浩史(フレッド)、彩乃木崇之(上院議員、黒人)、鈴木祐

西荻窪、遊空間がざびぃ

 

【観劇メモ】
昨年11月の『タイタス・アンドロニカス』の公演後、ASCは劇団結成後11年にして、今回新しい出発を迎えることになった。

そのことがあってから、それまで本音の声を聞く機会がなかった劇団代表の彩乃木崇之氏が、ホームページのブログで、これまで抑えていた気持を一挙に吐露されている。

そして、そのことを清算したかのように、今回は妥協のない舞台を作り上げている。

製作過程における稽古の状況は氏のブログに詳しく書かれているのでここには触れないが、今回上演された『恭しき娼婦』は、新生ASCとして見事な第一歩を踏み出したと絶賛できると思う。

裸になって最初から出直しを図ることを象徴するかのように、リッジーを演じる日野聡子は文字通り全裸になっての体当たりの演技。彼女の迫力ある演技は絶賛に価すると思う。

その彼女も凄いと思ったが、それを受けて立つ鈴木浩史のフレッドも凄いと思った。

彼が受けて立つのに一瞬の怯みがあれば、日野の全裸が滑稽なものに陥ってしまう。

全裸の姿を高尚なものに高めるのは、全身精魂込めた演技しかない。鈴木浩史はそれを見事にやり遂げた。

僕はこの二人の演技を見ていて、ASCの今後の、新しい希望の火を見る思いがした。

警官を演じた鈴木祐も清新な演技を感じ、今後が楽しみで期待される。

遊空間がざびぃという舞台空間も手ごろで、密度の高い演技を楽しむことができた。

作品自体についてはある意味で問題作品であるが、この作品を翻訳した芥川比呂志が、

<サルトルはこの戯曲で、アメリカにおける人種的偏見や社会的偽善を槍玉にあげている。『汚れた手』が共産主義国家における一知識人の悲劇であるとすれば、『恭しき娼婦』は資本主義国家における一庶民の恐怖喜劇であると言えよう>(『サルトル全集』第8巻、昭和27年4月5日、人文書院刊、『恭しき娼婦』のあとがき)と、この作品を<喜劇>としてとらえているのだが、彩乃木崇之は、さらに突っ込んで、この作品を<譲れないものを失うことのファルス>として解している。

娼婦リッジーが失ったものは良心=自分自身であるが、<政治>の前では無力なものでしかない。

彼女が失ったものの代償は大きなものであるが、彼女はそのことに気がついていない。そのことのファルス。

日野聡子が演じるリッジーの号泣が嬰児の無垢の嘆きとすれば、彩乃木崇之の意図を日野は見事に演じきったといえよう。そして日野の号泣は限りなく、その無垢への嘆きへ帰ろうとする。彼女の裸はその無垢への表象であるといえる。

アメリカという国家が持つ楽天的正義としてのアイロニーとしての喜劇、ファルスということでは理解できないことはないのだが、そのアメリカの楽天的正義は押し付けの正義であり、精神的略奪行為でもあることは歴史が証明する。遠くはインデイアンからの土地と魂の略奪、黒人の奴隷的所有と差別、そしてベトナム戦争から現在進行形のイラク戦争。

サルトルのドラマは、現在への問題をも提起する。

そして彩乃木崇之も、自らへの問題提起を投げかけることで、ここに新しい出発を感じさせる。

アカデミック・シェイクスピア・カンパニーのカンバンを掲げているが、シェイクスピア劇ではない。

今回の再出発はそれでよかったと思う。

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーだってシェイクスピア劇だけではない。

ASCの今後として、シェイクスピアの作品が今のところ具体的にイメージできない。

今回の劇がそれほど強烈な印象を残したといえるのだが、あえていえば、シェイクスピア以外のところで、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』を見てみたいと、ふと思った。

ローラーはもちろん日野聡子。そこで問題は母親のアマンダ役。これは無理をせずに客演の応援を求めた方がいいと思う。トムは彩乃木崇之、ジムを鈴木浩史ではどうだろう・・・


 

008 19日(土) 日韓合同公演 『焼肉ドラゴン』

作/鄭 義信、演出/鄭 義信、梁 正雄、美術/島 次郎
出演/申哲振、高秀喜、粟田麗、占部房子、朱仁英、若松力、千葉哲也、笑福亭銀瓶、水野あや、他


新国立劇場・小劇場

 

【観劇メモ】
鄭義信との共同演出者である梁正雄が鄭の作品を称して「東洋のチェーホフ」と語っているが、この『焼肉ドラゴン』の焼肉屋の三姉妹は、チェーホフの『三人姉妹』に似ている。

特に長女の静花(粟田麗)の後半部での、10年後、20年後には自分たちのことは忘れられてしまうだろう、という台詞はチェーホフのオリガの台詞を髣髴させる。

劇全体はチェーホフより喜劇的あるが、その根底ではチェーホフより一層悲劇的である。

焼肉屋ドラゴンの主人金龍吉(申哲振)が、その妻高英順(高秀喜)に繰り返し吐く台詞、「・・・それがお前の宿命であり、わしの運命」だという諦念は、三人姉妹の「生きていかなくては」というリフレインに通じるものがある。

ドラマ全体から受ける迫力感と対照的に、最後の場面の申哲振の静かで、澄んだ遠くを見つめるような眼が、いかにも切なくて涙がこみ上げてきた。

彼ら夫婦の長男時生(若松力)がトタン屋根の上で、「この町が嫌いだ、この町の人間が嫌いだ」と叫びながらも、本当は「この町が好きでたまらない、この町の人が好きでならない」と言い換えて叫ぶ・・・それがその悲しみの気持を増幅する。

その時生は、実際にはこのドラマの途中で、在日韓国人差別のいじめが原因で不登校となり、出席日数の不足から留年が決まった日、その屋根の上から飛び降り自殺していて、実際にはもう存在していない。

時は、大阪万博の年。

場所は、その大阪の在日韓国人が終戦後のドサクサにまぎれて不法に居住してきた国有地の一画。

そして彼らは今、その国有地から追い払われようとしている。

三人姉妹は紆余曲折を経て、それぞれに結婚するが、その三姉妹の未来に明るい見通しはない。

特に長女の静花は、幼馴染の哲男(千葉哲也)とユートピアを求めて北朝鮮に渡っていこうとしている。

現在のわれわれの眼から見れば、二人が描いていたものが幻想であったがことがはっきりとわかるだけに痛々しく感じる。

大阪万博も僕にとってはまさに同時代的であり、当時における北(朝鮮)がユートピアであったことも理解できる。

ハングルと日本語が混合して飛び交い、ダイナミックなドラマであった。

申哲振、高秀喜の二人の演技が印象的で心に残り、感動が怒涛のように波打って、カーテンコールの後もしばらく椅子から離れられない気持であった。


009 20日(日) 木山事務所公演 『出番を待ちながら』

作/ノエル・カワード、訳/高橋知伽江、演出/末木利文、美術/石井みつる
出演/川口敦子(ロッタ・ベインブリッジ)、新井純(メイ・ダヴェンポート)、加藤土代子(デイアドリー)、北村昌子(コーラ)、大方斐紗子(モード)、堀内美希(ボニータ)、水野ゆふ(アーチボルド)、荘司肇(オズグッド)、磯貝誠(ペリー)、他


新宿、全労済ホール/スペース・ゼロ

【観劇メモ】
2年前、同じく木山事務所プロデユースにて俳優座劇場で上演され、今回はその再演。

このドラマの主役ともいうべきロッタとメイの二人は、前回はそれぞれ南風洋子(劇団民藝)と松下砂稚子(文学座)が演じたが、南風洋子は故人となり、松下砂稚子は病苦療養中。

前回記者ゼルダを演じた水野ゆふは今回は、ザ・ウイングスの院長の役に変わっている。前回の記者の役もよかったが、今回のこの院長の役も「大佐」と呼ばれるに似合った、きびきびした演技でよかった。

その記憶だけはなぜか強く残っている。

モードの大方斐紗子、デイアドリーの加藤土代子、ボニータの堀内美希なども見ていて、前回の記憶がはっきりと甦ってきた。今回も前回同様に大方斐紗子のモードが素晴らしい。

ロッタとメイを新たに演じた、伝統のある老舗劇団出身の川口敦子がもつおおらかさと、小劇場出身で先鋭的な感じのする新井純のコントラストで鮮明な印象を感じた。

ドラマは引退した出番のない女優たちの話であるが、演じる女優たちは、それだけの年を経てきただけの味わいがあり、その彼女らの演技に、贅沢なご馳走を供せられた喜びを感じた。

これからも、彼女たちのもっともっと多くの出番を待ち望み、劇場を後にした。

010 26日(土) 劇団青年座・第191回公演 『ねずみ男』

作/赤堀雅秋、演出/黒岩 亮、装置/柴田秀子
出演/山本龍二、野々村のん、益富信孝、津田真澄、もたい陽子、横堀悦夫、他

下北沢・本多劇場

【観劇メモ】
初めはとてもシュールな感じのもどかしさがあったが、時間が交差して演じられているのが見えてきた時点では、全体の様子もなんとなくわかってきた。

劇を見終えて1日が過ぎた今、振り返ってみるとやはり非現実的な世界であった。

もっとも最近では非現実的で信じがたいようなことが日常的に発生しているので、現実の方がよりシュールと言えるだろうが。

3年前、スーパーで万引きをしてつかまり、それが原因で自殺した妻京子(津田真澄)のことが忘れられない男、松田稔(山本龍二)は、親の代から自転車屋を営んでいる。

稔は薄暗い自転車屋の仕事場で誰とも口を聞かないで一日中過ごしている。

そんな彼の姿を見て近所のものたちは、彼のことを「ねずみ男」と呼んでいる。

妻が自殺をしたのはスーパーのアルバイトの女性店員、根本恭子(野々村のん)のせいだと逆恨みして、彼は彼女の周りをしつこく付け狙う。しかし自らは何の直接行動も起こさない。

それを隣に住む少年野球チームの監督、片岡(横堀悦夫)が恭子を誘拐して、松田の家に監禁する。

3年前の今日、それは松田の娘美紀(もたい陽子)の誕生日であった。

彼女の誕生日を祝うべく松田自転車屋の店員石井(川上栄四郎)はピザを注文したりケーキを買ってきたりするが、その日、美紀は戻ってこなかった。

3年前のその日の午後9時22分、妻の京子は飛び降り自殺をした。

それで今、松田は誘拐されてきた恭子を、同じ時刻の午後9時22分に殺して自分も自殺すると言っている。

そして、その日は3年前と同じく、松田の娘美紀の誕生日。石井は3年前と同じように誕生会の準備をする。

誘拐された恭子は、手足を粘着テープで縛られているだけなので、自由にそれをはずすことができる。汗ですぐ外れると言っては閉じ込められた部屋から抜け出してきて、勝手に冷蔵庫から牛乳を取り出して飲み、冷蔵庫の冷気で涼む。そしてまた再び粘着テープで縛られるのだった。

3年前には帰ってこなかった娘の美紀は、身重の体で彼氏と実家に帰ってきているが、父親の稔とはお互いに目を合わせない。美紀は誕生会に帰ってきたのではなく、出産の準備で身の回りに必要なものを、実家で不要になったものを取りに来ただけである。

美紀の彼氏矢崎(宇宙)は、ボケが進行している稔の父親、勝(益富信孝)に挨拶をするが、東大出身の別人と常に間違えられる。

店員の石井は、そんな周囲の状況に関係なく、美紀の誕生パーテイの準備を進めている。

舞台は急展開していて、誘拐された恭子の夫、根本真治(高松潤)が美紀の誕生パーテイに石井に誘われてやってくる。

根本は、無断で一日泊まった(実は誘拐されたのに)恭子と稔に肉体関係があったのではないかと疑う。

夫に疑われた恭子を、稔は娘のように抱きしめる。

そうして稔は恭子を解放して自由にする。

娘の美紀が、父親と母親の交換日記のようなメモを発見する。

そのメモには、「明日のお昼は何にする?」という変哲もないことが毎日のように繰り返し書かれている。

稔は、美紀が読み上げるその言葉に、そのメモが書かれた日がどんな日であったかを思い出す。それは妻と喧嘩した日だった。けんかをした日にはお互い口を聞かず、メモでやりとりをしていたのだった。

そのメモの日付からすると、けんかをしていない日のほうがはるかに少ないのだった。

美紀が家を出て帰ってこなかった理由も、そこでなんとなく氷解してくる。

妻の京子がなぜ、ねりわさび一個万引きをしたのかも見えてくる。

稔が妻京子と会話する言葉はただ一つ、「あのカエルの爪切りはどこにある?」だった。

答えはいつも同じ。

・・・ないのだ。

最後に稔はそのカエルの爪切りを発見する、「こんなところにあった」と・・・。

妻の恭子はもういないのに。

・・・不満足、というのとは少し違って、どこか不消化の気持が残るドラマであった。

 

 

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