高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

2007年12月の観劇日記
 
044 2日(日) 小島章司フラメンコ 『戦時下の詩人たち』<愛と死のはざまで>

原案/小島章司、演出・振付/ハビエル・ラトーレ、音楽/チクエロ、美術/堀越千秋
キャスト/小島章司、ナニ・パーニョス、イレーネ・ロサノ、ベゴニャ・カストロ、他

ル テアトル銀座

【観劇メモ】
小島章司のフラメンコを見るのはこれが3回目である。

初めて小島章司のフラメンコを見たとき、それまで抱いていたフラメンコのイメージが完全に覆され、衝撃的なしびれ、とでもいうような戦慄を感じた。

今回はその小島章司の舞踊生活50周年を記念しての公演であり、彼が敬愛するスペインの詩人ガルシーア・ロルカへのオマージュとしての<愛と平和三部作>の最終章として創作されたものである。

舞台美術はスペインに在住の画家、堀越千秋。劇場に入ってまずこの舞台美術に魅せられた、というか圧倒された。舞台背景全面に、巨大なX字の抽象画。そして舞台中央前面に、やはり抽象的な銀色のオブジェが吊るされている。

開演前の「携帯電話の電源をお切り下さい」などという野暮なノイズも、開演の合図もないままに、舞台は溶暗し、音楽が奏せられる。

序章は、真っ赤な衣裳を身につけたベゴニャ・カストロの踊りから始まる「予兆」。

内容も何もわからないのに、僕はこの場面が終わる頃には胸に熱いものがこみ上げてきて、自然と涙がこぼれた。

次の場面は少年3人が、「警戒せよ」の詩を朗誦。

以下、特別出演のナニ・バーニョスとイレーネ・ロサノによる「愛」、ベゴニャ・カストロが加わっての「恐怖」、続いてペゴニャ・カストロ他による「憎しみ」、小島章司とナニ・バーニョスによる「死」、イレーネ・ロサノ他による「孤独」、ペゴニャ・カストロ他による「不在」、そして小島章司以下全員による「喜び」で最後を飾る。

休憩なしで1時間40分ほどの時間が瞬く間に過ぎ去った。

なにか凄いものを見た、というずっしりとした高揚感に押しつぶれそうな気持で劇場を後にした。


045 22日(土) 新宿梁山泊第36回公演 『少女都市からの呼び声』

作/唐 十郎、演出/金 守珍
出演/広島 光(男―田口)、沖中咲子(少女―雪子)、金 守珍(フランケ醜態博士)、コビヤマ洋一、染野弘考、梶村ともみ、三浦伸子、渡会久美子、麻生 麦(特別出演)、他

芝居砦・満天星

【観劇メモ】
手術台の上に男(広島光)が横たわっており、身寄りのないその男の親友有沢(川畑信介)とその恋人ビンコ(目黒杏里)が付き添っている。有沢は手術の同意を迫られ、逡巡している。

男の開腹手術から出てきたものは、少女の黒髪。その男、田口は妹雪子(沖中咲子)を体内に懐胎していたのだった。田口の夢想がそこから始まる。

田口は妹雪子を捜し求めて彷徨い、少女が働いているガラス工場のある「少女都市」で彼女を見つける。

雪子は一緒に失踪したガラス工場の主任フランケ醜態博士(金守珍)によって、その体をガラス細工に変えられ、肉体のほとんどがいまやガラス細工と化そうとしている。田口は妹を救い出そうとするが、雪子はそのためには雪子がガラス工場の仕事中に事故で失った3本の指と同じ数だけ、田口も切り落とさなければならないと、その切断を迫る。

田口は手術の後三日三晩眠ったままの状態で、今夜がその山場というとき、有沢の訪問でやっと目覚める。有沢は田口の妹の話をするが、田口には妹などいない、と言う。

話の主筋はこんなものだが、その主筋に錯綜する挿入によって、われわれは夢幻の世界へと彷徨させられる。

最後に、ビー玉が舞台に霰のように降り注がれ、舞台はそのビー玉でいっぱいになるところは壮観、としかいいようがない。

非日常の世界、アンリアルな世界を、ダイナミックな形で形象化する新宿梁山泊の舞台を楽しんだ。


046 24日(月)第14回BeSeTo演劇祭『廃車長屋の異人さん』(日中韓俳優出演・3ヵ国語版)

原作/ゴーリーキー作 『どん底』より、
翻訳/神西清(日本語)、芳信(中国語)、石川樹里(韓国語)
演出/鈴木忠志

新国立劇場・中劇場

【観劇メモ】
座席番号は8列38番。前列から3番目で舞台真正面の位置。

鈴木忠志が描き出す社会の底辺にうごめく貧民層は、地下室の穴倉のような住居ではなく、廃車となった車の中に居住していて、資本主義社会を象徴する車社会の底辺に位置する貧者として描き出される。

登場人物のセリフは大半が日本語だが、中国と韓国の俳優はそれぞれ中国語、韓国語で語る。

無料で配布されたBeSeTo演劇祭『廃車長屋の異人さん』の小誌の鈴木忠志の寄稿文、<「どん底」と美空ひばり>に記されているように、その二つは両極に対峙しているようにみえるが、劇中歌として挿入される美空ひばりの歌が実に調和して融合しているのだった。

それは美空ひばりが、戦後の荒廃してすさんだ庶民に希望の輝きとして心に安らぎを与え、高度成長期にはしんみりとした心を鎮める歌で、うら寂しさを癒してくれたからだと思う。

鈴木忠志の劇は、ストイックで緊張から解放されることがなく、その緊張感は30分とは保てず、瞬時の眠りに落ち、そしてすぐにまた覚醒する。その繰り返しのようなところがある。美空ひばりの歌は、そんなとき、安らぎとして響いてくる。

鈴木忠志が呈示する異次元のような劇的世界に、夢遊的に浮遊しているような感動を覚えるのだった。

2007年も、この鈴木忠志の劇をもって見納めとなる。



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