高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

11月の観劇日記
 
038 2日(金) グループ る・ばる公演 vol.15 『片づけたい女たち』

作/永井 愛、演出/木野 花、美術/大田 創
出演/松金よね子、岡本 麗、田岡美也子

三軒茶屋、シアタートラム

【観劇メモ】2004年1月にシアタートラムで初演、今回はその再演。

初演は作者の永井愛が演出したが、今回は木野花が演出。

舞台は満席で、両サイドの階段状の通路にそれぞれ10人以上の立ち見客。休憩なしの1時間50分の上演時間ではちょっと辛いかも。

僕はC列7番、前から2列目で、下手側のブロック(上手、中央、下手の3ブロックで各ブロックに7席ある)の右端席なのでいくぶんか中央に近い。

幕が上がると、舞台全体にゴミ袋の山が足の踏み場もなく散らかっている。

観客席から思わず失笑と軽い驚きの声。

ツンコ(岡本麗)を深夜訪ねてきたオチョビ(松金よね子)とバツミ(田岡美也子)の二人は、その部屋の状態を見てしばらくボーゼン・・・・。ツンコを呼んでも声もしない。二人はそのゴミの山の中を探し回り、オチョビは何かあったのではないかと不安になる。

と筋をたどるのはこれぐらいにして。

再演といっても細部までストーリーも覚えているわけでもないのだが、今回はなんとなく前回ほどの緊張感がなかった、という意味では今回は自分にとっては前回と比較して80点ぐらいの気持。

気のせいか、ちょっと元気力が落ちているような・・・・。


039 9日(金) 文学座公演 『殿様と私』

作/マキノノゾミ、演出/西川信廣、美術/奥村泰彦
出演/たかお鷹、加藤武、富沢亜古、寺田路恵、浅野雅博、城全能成、松山愛佳、星智也

紀伊国屋サザンシアター

【観劇メモ】
題名がいい。
まず題名に惹かれ、配役にたかお鷹、加藤武の二人がいて、文句なく面白ソーという気になる。
それに脚本がマキノノゾミ。

題名からしてこれが『王様と私』のモジリであることはすぐに知れる。オリジナルの細かいストーリーは覚えていなくとも、それがどのように翻案されているのかという期待感がわいてくる。

時代は明治19年から20年にかけて。

明治の日本政府は外国との不平等条約を改めるべく、鹿鳴館での接待外交にあけくれる。そんな追従外交に背を向け、旧風を通す元白川藩主(たかお鷹)とその家令雛田源右衛門(加藤武)。

「ノルマントン号事件」という実際にあった事件(これが実際にあった事件であると知ったのはプログラムを見て)で、イギリスの貨物船ノルマントン号が暴風雨のため紀州沖で座礁して沈没し、そのときイギリス人の乗組員は全員ボートで脱出し無事だったのに対し、日本人乗客25人は逃げるのを妨げられて全員が死亡した。ノルマントン号の船長ドレイクはイギリス人によりイギリスの法令で裁かれ、最初は無罪、その判決に憤って裁判のやり直しを求めた結果がたったの3ヶ月の禁固刑。そのことに義憤を感じた白川家の殿様とその家令雛田源右衛門は、ドレイクを成敗すべく横浜の領事館まで忠臣蔵の衣裳を着て押しかけていく。

日本の劇的な変化は、近くは太平洋戦争の敗戦後と、この明治維新であろう。そしていつの世にも変わり身が早くて、うまく世の中を泳ぎ渡っていくものと、流れに取り残されて行き場のなくなった者がいるものだ

器用な変わり身ができず、時代に取り残されてついていけない殿様のやるせなさと哀れさが逆に滑稽さにもなる。

娯楽作品としてよく仕上がっているだけでなく、さまざまなことをも考えさせてもくれる佳作である。

『王様と私』の本歌取りであるこの作品のユニークさは、オリジナルと違って殿様は英語をまったく解さず、ダンス教師のアンナ(富沢亜古)とは直接的にはまったく意思疎通ができないという設定。

その二人が、雛田源右衛門の切腹騒動で深夜二人きりになってしまったところで、酒を飲み交わしながら交互に自分の話題を語る。言葉は通じないのに、妙に話の脈絡が合っている。が、内容的には二人ともまったく理解できていないのでアンナは会話より、ダンスをといって殿様を誘う。殿様は、それまで深刻な話で苦虫をつぶしたような顔をしていた表情を一変させて、アンナからダンスの習い始めに注意された笑顔で踊るということを忠実に守る。そのたかお鷹が表情の変化のうまさを感じさせる。

古武士然とした風貌の加藤武の滑稽味もまた期待に外れないものだった。



040 11日(日) 劇団鳥獣戯画 第72回公演 『春でもないのに』

作・演出・振付/知念正文、音楽/雨宮賢明
出演/寺門一憲、ちねんまさふみ、才勝誠司、石丸有里子、竹内くみこ、魚住如心子、他

下北沢、ザ・スズナリ

【観劇メモ】
思いっきり、青春回顧をした。センチメンタルジャーニー。

ドラマの進行で次々と聞かせてくれるなつかしのフオークソングに、ひたすら感傷の気分に浸る。

作者である知念正文は書く。

「作家によって作風は色々だろうけど、ボクの作品には必ずボクがいる。それも、恥ずかしいボク、悲しいボク、苦いボク・・・・」

知念正文が呈示する世界は、知念正文という個人固有の「ボク」の世界であるだけではなく、同じ世代を共有する僕ら全体の「固有のボク」の世界であり、恥ずかしいボク、悲しいボク、苦いボク、そしてちょっぴり甘い感傷の気分を僕らは享有する。

ストーリーは単純なのだが、男の友情と遅すぎた和解の悲しみの、その甘い感傷にのせられてじんわりと涙がにじんできた、恥ずかしいボク・・・・。

今回、本当は娘の七保と一緒に行く予定であったが体調が悪くて、代わりに妹と一緒に観た。


041 16日(金) 劇団青年座公演 『あおげばとうとし』

作/中島淳彦、演出/黒岩亮、装置/柴田秀子
出演/那須佐代子、大家仁志、藤夏子、益富信孝、小林さやか、他

下北沢。本多劇場

【観劇メモ】
作者が中島淳彦ということで、文句なく予約。それに初日のみ料金が3500円だったのも魅力。座席も最前列中央のB列10番とラッキー。

場面は作者の出身地でもある宮崎県日南市油津の小学校の職員室。

時代は大阪万博から2年後の昭和47年。万博で思い出すのはこの作者の作品『エキスポ』。

どんな時代にも学校の問題児はいるものだが、ここでは職員室を舞台に、実際には登場しないその問題児をめぐる騒動を中心に物語が進む。教師という職業ももうこの時代ではすでに聖職という観念が薄れている。人間としての教師のありようが、登場する11人の教師を通して多様に映し出される。その多様さをうまく描き出しているのはやはり作者の力量だけではなく、人間の観察力だろう。

実際には登場しない児童も、よく表現されていると思ったのは、新米教師の吉田先生(安藤瞳、今回が初舞台)と運動会のフォークダンスで一緒に手をとって踊った生徒、彼は吉田先生に恋心を抱くようになって、彼女がラブホテルに通うのが許せなく、ついには学級新聞にそのことをいたずら書きし、人騒動起こす。この児童の気持もよくわかる。先生へのあわい恋心は誰しも(でもないか?!)一度はもつのではないだろうか。その子が担任の山下先生(津田真澄)から厳しく問い詰められて、学校に登校しなくなる。その問題を相談しあう中で教頭(藤夏子)が欧米では「登校拒否」という問題を研究しているそうだと話す。まだこの頃ではこの登校拒否という言葉も一般には知られていなかったんだと、改めて思い直した。

児童から給料ドロボー呼ばわりされても意に介さない定年間近の有田先生(益富信孝)は職員室でも一人孤塁を守っているように見えても、初孫が生まれるとその表情も一変する。3人の子供がいて離婚した山村先生(小林さやか)、同僚の岡部教師(那須佐代子)に不倫の思いを寄せる松本先生(大家仁志)などなど、先生たちの間にも色々問題がそれぞれにある。

岡部先生が問題児を一時家に預かって自分の家族と一緒に過ごさせるが、昔はこんなことも実際になくはなかったなと思い、懐かしい気持にさせられた。

劇場を出たときのさわやかな気持。いい劇を観た後は実に気持がいいものだ。


042 19日(月) こまつ座公演 『円生と志ん生』

作/井上ひさし、演出/鵜山仁、美術/石井強司、音楽/宇野誠一郎
出演/辻萬長、角野卓造、塩田朋子、森奈はるみ、池田有希子、ひらたよーこ

紀伊国屋サザンシアター

【観劇メモ】

初演は2005年2月、紀伊国屋ホールで。円生の辻萬長、志ん生の角野卓造は同じで、女性陣はひらたよーこのみ再出演であとは入れ替わっている。今回は平日のマチネで観劇。そのため大半が年配者で占められていて、意外なことには結構男性も混じっていた。

前回も多分同じ感想だったと思うが、辻萬長といい、角野卓造といい、本物の落語家にしてもいいような「はなし家」ぶりにまた感歎。

 


043 23日(金) 三つの悲劇/ギリシャから 『異人の唄』 (アンテイゴネ)

作/土田世紀、脚色・演出/鐘下辰男、美術/島次郎
出演/すまけい、土居裕子、純名りさ、木場勝己、小林十市、他

新国立劇場・中劇場

【観劇メモ】

舞台は常に夜・・・

そして舞台は異界の世界・・・

舞台設定は、北(北海道)の港町のある村ということになっているが、舞台美術から受ける印象は、はるか遠いアフガニスタンの砂漠と岩山の世界を感じさせた。

しかし時おり聞こえてくる潮騒、海鳴りの音で、そこが海辺に近い村だとうかがわせる。

舞台中央後方に、物見櫓が屹立している・・・。

かつてそれは村の祭りのときに使われた櫓の跡。

舞台の周囲は、砂浜の起伏が円を描くようにして舞台を凝縮している。それはギリシャの円形劇場の、すり鉢の底を象徴しているかのようでもある。

上手よりの観客席通路より、白い洋服に、つばの広い白い帽子で顔の隠れた女、白い女がゆっくりと登場してくる。女は素足。砂浜をかみ締めるような歩き方だ。

一歩一歩の足取りを確認するように歩く。

つま先からかかとまで垂直に立て、そしてゆっくりと歩をすすめ、かかとからつま先へと砂地に足をつける。

白い女はシンボルとしての存在でしかないことが、舞台を見終わって分かる。

キャステイングにも、ただ「白い女」とだけあって、配役名がない。それでいて、全員の出演者の登場人物数を数えても、確かに独立した一人の出演者で誰かの「二役」ではない。誰でもないというその存在からして、象徴的である。

・・・・それは、永遠の存在、あるいはアンテイゴネの表象、のような。

『異人の唄』は、現代を舞台にしたギリシャ悲劇三部作の競演最後を飾る作品であるが、その3つの中では一番ギリシャ悲劇の持つ重苦しいテーマがストレートに置き換えられていると思った。

原作(というのはおかしいか?)は漫画家の土田世紀が書いているが、演出をかねる鐘下辰男が脚色している。土田世紀の元の作品がどのようなものであるか分からないが、舞台を見た印象では、これは鐘下辰男の世界だと思った。

ギリシャ悲劇のテーマそのものが重苦しいものであるが、この舞台も実に重い。

かつて北のある漁村に旅芸人の一座が来て、旅芸人の女、淀江サトが唄を歌うと、村は豊漁に沸いた。

しかし、サトが村の男と駆け落ちして「海の向こうの世界」に渡ろうとして、サトも男も死んだ、とされた。

サトが死んでから、村は不漁となって、村はさびれていった。

サトには旅芸人の座長である兄、淀江穴道(すまけい)がいて、サトには娘が二人、アン(土居裕子)江メイ(純名りさ)がいて、二人の姉妹はその兄によって養われてきた。

だが、兄は認知症で足腰が不自由であり、目も見えない。アンが叔父の一切の面倒をみている。

叔父は、サトが死んでからは二人の娘に歌うことを一切禁じている。

3人は村の不幸の元凶として村人から監視された状態で長い間過ごしてきた。

そこへ海の向こうから、水上正悟(木場勝己)とその息子辰(小林十市)がやってきて、辰はメイの唄に目をつけて彼女を歌手にしようと海の向こうに連れ出そうとする。

正悟は、息子にメイに近づくのではないと厳しく注意する。

水上正悟こそ、かつてアンとメイの母である旅芸人のサトと海の向こうに逃げようとして死んだはずの男であった。サトを殺したのは果たしてだれであったのか・・・・。

水上正悟と淀江穴道のお互いの息詰まるような追求。

サトはその村で共有化された存在であって、特に村長が独占的に占有していた。淀江は水上に、嫉妬からサトを殺したのだと主張し、水上は、淀江が妹であるサトを殺したのだと反論する。

サトに最後に会ったのは村長であることから、村長(声のみ)に問い質す。

村長はなかなかしゃべろうとしないが、ついにはサトに嫉妬した自分の妻が殺したことを白状する。

その妻はその後自殺してしまうが、サトの最後の止めを刺したのは、実は、娘のアンだった・・・・。母がアンに従容として殺されたのは、近親相姦の連鎖を断ち切ろうとしたからだった。

アンは母の唄を継ぐのは自分ひとりでいい、妹は要らないと、二人は長い間憎みあって生きてきたのだった。

そしてそこから意外な事実が明らかにされていく。

アンは、叔父である淀江穴道とその妹であるサトとの間に生まれた、近親相姦の子であった。

水上正悟が息子の辰にメイに近づくのではないと注意したのは、兄妹である二人が只ならぬ仲になることを恐れたからであった。

しかし、その「過ち」は再び繰りかえされることになる。

・・・・二十年後、その村に一人の女が車椅子の老人を連れて訪れてくる。女は、メイと辰との娘であった。

母は娘を産むとすぐに亡くなり、辰は淀江穴道と同じ運命をたどり、今は車椅子の人。

この一連のドラマは、すべて「夜の世界」のできごと。

昼は見えるものだけしか見えないが、「夜」は「見えないもの」が見えてくる世界。

見えないものを暴き出す。

それは暴力的な世界。

そして異界でもある。

村人たちは、8人のコロスが演じる。

象徴的なのは、爆撃音や銃撃音がドラマの展開の中で途中思い出したように繰り返されること。

戦争が近づいているとドラマの中でも語られるが、それがいつの時代のことなのかと思わせるだけでなく、場所をも不確かなものにする。

アンとメイが禁じられた歌うこと、その禁じられた唄を、二人が最後に絶唱する声は、魂を揺さぶるような、遠い心の底から響き渡ってくるような感動を覚えさせる。

重い、重苦しい舞台ではあったが、すまけいと木場勝己の熱演、そして土居裕子と純名りさの息詰まるような演技と、二人のすばらしい歌唱力に魅せられた舞台であった。

 


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