高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

3月の観劇日記
 
008 3日(土) 『コペンハーゲン』

作/マイケル・フレイン、翻訳/平川大作、演出/鵜山仁、美術/島次郎
出演/村井国夫(ボーア)、今井朋彦(ハイゼンベルク)、新井純(マルガレーテ)

新国立劇場・小劇場

【観劇メモ】
初演は2001年。そのときのボーア役は江守徹。今回はそのボーア役が村井国夫に変わっただけであとは同じ。印象としては江守徹の場合は饒舌に感じたのが、村井国夫は内省的な感じが強い気がする。どちらがいいとか優れているとかということではないが、再演ということもあってか、今回のほうが内面的な深まりを感じた。しかし、量子力学など物理学の専門的な用語や内容が飛び交うので台詞を聞き続ける緊張感が持続せず、途中で遠慮会釈なく睡魔に襲われ大半寝ていたような感じ。しかし要所要所で台詞にサスペンス的な要素があるので、はっと目が覚める。

初演と同じ舞台美術で、内面性を照射する象徴的な舞台装置が今回も強い印象を与えた。

 
009 11日(日) 地人会第104回公演 『ブルーストッキングの女たち』

作/宮本研、演出/木村光一、装置/石井強司
出演/純名りさ(伊藤野枝)、かとうかず子(平塚らいてう)、加藤忍(神近市子)、佐古真弓(尾竹紅吉)、旺なつき(松井須磨子)、上杉祥三(大杉栄)、仲恭司(島村抱月)、中村彰男(辻潤)、若松泰弘(荒畑寒村)、田中正彦(甘粕憲兵大尉)、


紀伊国屋ホール

【ストーリーと感想】
終演後の地人会友の会交流会での演出家木村光一の話。

『ブルーストッキングの女たち』は『美しきものの伝説』の女性版、そして後者が少し喜劇調になりすぎた点をシリアスにした作品。しかしながらこの作品も一生懸命生きていこうとしているが、そこで多少ずれている点において喜劇であるという。この木村光一の説明を聞いていて、チェーホフが自分の作品は喜劇であるといっている意味合いがよく分かった。チェーホフの登場人物たちも一生懸命生きようとしていてどこかずれているのだ。

観客の意見として、この劇の終わりがあまりにも暗い、もう少し明るく終わらせたらというのが出された。

その意見に対して、木村光一は観客としては劇を見に来てそこでエクスタシー(と木村光一は言ったのだが、これはむしろカタルシスと言ったほうが適切なような気がする)を求めていると思うが、この劇の最後で大杉栄の長女魔子に大杉のパリからの手紙を読ませたことでその辺のところを工夫したつもりであると回答された。この劇が、大杉栄と伊藤野枝が甘粕大尉に惨殺される場面(直接その場面は出ないが)で終わるため、何か後味が非常に暗く重い気持になるのは確かである。そのためもあってか、木村光一も指摘しているように、劇が終わっても拍手がためらわれているようにまばらである。

反対意見として、前半の女性たちの明るいたくましい生き方の後、このような場面があるのがこれからの日本の社会を予兆するかのような印象でもあるというような意見が、年配の女性から出された。

題名のブルーストッキングは平塚らいてうの「青鞜」を横文字化したものであるが、その「青鞜」を中心にかかわった人物たちのそれぞれの生き様がこのドラマでは描かれている。登場する誰もが主役とも言えるが、軸となる中心人物は『美しきものの伝説』と同じく伊藤野枝。彼女は東京の女学校を卒業して九州に戻ってすぐに地元の有力者の息子と結納が交わされたのを嫌って、「青鞜」の平塚らいてうを頼って上京し、女学校時代の英語の教師辻の元にころがりこみ同棲する。その果敢の行動力が大杉と結ばれることにもなってくる。

劇中劇で松井須磨子の演じるイプセンの『人形の家』で、ノラがあてもないのに家を出て行く。この場面について、島村抱月や松井須磨子を招いての交流会で、らいてうや野枝の意見が交わされるが、野枝の生き方がそのままノラと一緒になって重なってくる。女性の自立ということについても多様に考えさせられる場面でもある。

松井須磨子を演じた旺なつきの演技が凄かった。島村抱月の二ヵ月後の命日を控えたとき、松井須磨子はかつての青鞜のメンバーが集まったところに招待されてくるが、挨拶もそこそこに「時間がありませんので」と言うときの表情の迫真力に思わず息を呑んでしまった。

大杉栄を演じた上杉祥三が、実在した人物、それもそれほど昔でない人物を演じるのに、そこに見えはしないが何か感じるものが存在するということを言っていた。そして写真を見ると大杉栄と自分が四白眼で顔がよく似ているといっていたが、プログラムに載っている大杉栄の写真を見るとなるほどよく似ている。

劇中人物が実在の人物というだけでなく、神近市子や荒畑寒村など、1980年代まで生きていたという身近な存在であるだけに生々しいものがある。

ブルーストッキングに表象されるように、このドラマは女性たちのしたたかな生き様を生き生きと見せてくれるが、一方では『美しきものの伝説』でもそうであったが、伊藤野枝を愛した辻潤の生き様に、作者宮本研の共感を感じとることが出来るような気がする。

宮本研という劇作家の骨太で確かな構成力に圧倒された。

 
010 17日(土) 加藤健一事務所公演 『特急二十世紀』

原作/ベン・ヘクト、チャールズ・マッカーサー、脚本/ケン・ラドウイック、訳/小田島恒司、演出/久世龍之介
美術/大田創
出演/加藤健一、日下由美、浅野雅博、さとうこうじ、一柳みる、他

下北沢・本多劇場


011 26日(月) ラッパ屋 第33回公演 『妻の家族』

脚本・演出/鈴木聡、舞台美術/秋山光洋

出演/木村靖司、おかやまはじめ、福本伸一、弘中麻紀、他
紀伊国屋ホール

【ストーリーと感想】
久しぶりにラッパ屋の舞台を見て大いに笑った。

バスの運転手の長男三田村英一郎(宇野佑)は50歳で独身、70を越した病気の母親治子(舞台には登場しない)と二人暮らしをしている。治子にはほかにも子供がいるが最近病気なのに誰も見舞いにもこないのに業を煮やして、「ハハキトク」ともとれるようなメールで子供たちを呼び寄せる。

四女の松川多佳子(岩橋道子)が最近結婚したばかりの夫徹(福本伸一)と喪服を着てやってくるところから舞台は始まる。徹は多佳子と結婚して間がないとはいえ、家族にも挨拶もしていないのでさかんに恐縮して、家の中で会う誰にも愛想笑いを浮かべて挨拶をしようとするが、前を通り過ぎても無視され続ける。

やっと多佳子の父親らしき人物に挨拶すると違うという。そのうちにこの家の家族には父親が二人いることが分かってくる。治子の最初の夫とは死別し、その二人の夫とは今は離婚した仲ではあるが、なぜかその場に居合わせていて、自分の家のように振舞っている。

治子には死別した夫と、その二人の離婚した夫との間に二男四女の子を設けている。母親と二人住まいの長男を除いて、離婚した二人の夫と子供たちそれぞれが借金の問題を抱えている。

離婚した夫どうし、娘は娘たちで、母親が住む家を売って相続分与を相談しあう。そのことで腹を立てた長男の英一郎は前から望んでいたマウンテインバイクでの旅行に出かける。

英一郎の運転免許書とジャンパーの切れ端を残して、雷に打たれて真っ黒に焼け焦げた死体が発見され、英一郎の葬儀が行われる。その葬式の場で再び借金の返済のための家の処分の話題が持ち上がる。しかし三女の澄江(三鴨絵里子)の夫で骨董屋を営む酒寄米郎(おかやまはじめ)は、由緒ある古い家を売ることに反対する。

この四女の夫婦関係が母親の治子に劣らず珍妙な関係で面白い。まず長女の英子(大草理乙子)は45歳の年だというのに27歳のストリートミュージシャン佐野純太(中野順一郎)を若いツバメにしている。英子の借金の原因は純太の売り込みようのCDを作るのに騙されたものである。結婚相談所で出会った脳学者と結婚している次女のひばり(弘中麻紀)はスロットマシンで借金を重ねている。三女の澄江の場合は夫の米郎が骨董品の鑑定で偽者をつかまされての借金。四女の多佳子の場合は相当にいわくありで、借金の原因はホストクラブに熱を上げすぎたため。そのいわくありというのは、イタリア旅行で騙されて睡眠薬入りのジャスミン茶を飲まされて腎臓を1個切り取られたという過去を持つ。そんな多佳子とキャバクラで知り合って結婚して2週間足らずの夫徹は、多佳子の過去を知らなかっただけでなく、複雑な家族関係のこともまったく知らされてもおらず、ただ身を引いて驚くだけ。

最後のオチは想像していた通り・・・・。

死んだはずの英一郎が戻ってきて、自分のための葬式と走らず、自分がいない間に母が亡くなったことを嘆く。そして家族の全員が当然のように英一郎が生きて戻ってきたのに驚く。英一郎は露天風呂に入っている間に一切合財盗まれてしまったのだった。まるで落語のような話・・・・

ストーリーをまとめてしまえばこんなものだが、ラッパ屋のそれぞれの俳優が等身大の人物を演じるだけに、身近に覚えて面白い。

大学の脳学者を演じる木村靖司、校長とPTAと児童の間の板ばさみで登校拒否症の小学校教師を演じる福本伸一は期待通り楽しませてくれた。そのほかの出演者もみなそれぞれに持ち味があり、よかった。

サラリーマンが仕事帰りに見る舞台として最高!!


012 31日(土) 木山事務所公演 『やってきたゴドー』

作/別役実、演出/末木利文、美術/石井みつる
出演/山崎清介、内田稔、楠侑子、三谷昇、林次樹、内田龍麿、他

俳優座劇場

 

【感 想】
ゴドーはそこに来ている。存在を主張している。ゴドーを待っていたエストラゴンとウラジミールは、ゴドーが「来ている」という主張を認めはするが、認知はしない。ゴドーはそのことに苛立ち、自分がそこにいるということを何度も繰り返し主張し、二人は自分が来ていることが分かっていないと言うp

ゴドーが「神」だとすれば、20世紀は「神」を待つ時代であったが、21世紀は「神」を無視する時代であるかのようである。神はそこに苛立ちを感じているという風刺が感じられる。

別役実のエストラゴン(林次樹)には30年前に別れた母、女1(楠侑子)がいて、その母がエストラゴンから手紙を受け取って彼に会いに古びたバス停にやってくる。一方、ウラジミール(内田龍麿)は結婚していて生まれた子供の母親の姉、女4(木村万理)が乳母車を押して失踪した父親であるウラジミールを捜し求めている。

ゴドー(山崎清介)はその存在をはっきりさせるためにこうもり傘を持っている。

ラッキー役の三谷昇は、そこに立っているだけでおかしみを感じさせる。

今回は、俳優座での「別役実祭り」の第一弾であり、続いて4月には俳優座劇場プロデユース公演として『壊れた風景』(山下悟演出)と兵庫県ピッコロ劇団公演『場所と思い出』(松本修演出)とが上演される。

さらに文学座アトリエの会での公演として『犬が西むきゃ尾は東』と『数字で書かれた物語』が6月15日から7月5日まで上演されることになっている。

無料のプログラムには、その冒頭で別役実が「七十の手習い」の巻頭文を寄稿しており、それによると別役実は今年で70歳、古希を迎え、今回の『やってきたゴドー』でその作品本数が129本に達し、目標は鶴屋南北の137本を超えることという。

そして大笹吉雄はその寄稿文「別役実風ということ」で、『やってきたゴドー』は今年最大級の問題作になるだろうに相違ないと、最大級の賛辞を呈している。


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