高木登劇評-アーデンの森散歩道-別館-

 

2月の観劇日記
 
004 10日(土) こまつ座公演 『私はだれでしょう』

作/井上ひさし、演出/栗山民也、音楽/宇野誠一郎、美術/石井強司
出演/浅野ゆう子、梅沢昌代、前田亜季、大鷹明良、北村有起哉、川平慈英、佐々木蔵之介、朴勝哲

紀伊国屋サザンシアター

【感想】
作品完成の遅れから公演が2回延期となり日程を変更しての観劇となったが、当初よりいい席が取れて、5列の中央の12,13番となって非常にラッキーであった。

終戦後1年ほどたった昭和21年7月から22年11月までの1年と5ヶ月ばかりの間の、戦争で消息不明になった肉親・家族を尋ねる日本放送協会(NHK)のラジオ番組が舞台となっている。

「尋ね人」のラジオ番組のスタジオに突然飛び込んできた記憶喪失者で、自分が誰であるかを探し求める山田太郎(川平慈英)が、記憶に埋もれた才能を無意識のうちに働かせてその芸を楽しませてくれるが、例によって、井上ひさしはそこにさまざまな問題を提起していて、いろいろなことを考えさせる。

終戦後、日本人の大半が自己喪失に陥っていた、そのことを山田太郎という人物に仮託しているようにも考えられる。自分がやったことを忘れてしまった日本人・・・。

戦後の日本占領軍のアメリカと現在のイラク戦争のアメリカとが重なって見えてくる。イラクの反対勢力は一般市民を巻き添えにしながら徹底してアメリカ軍やイラク政府軍に抗戦する。アメリカはそれをレジスタンスとはいわず、テロという。イラクの場合、種族や宗教間の違いの問題もあり事は簡単ではないが、それに比較して占領下における日本人はなんと従順であったことか。

このドラマで特に考えさせられたことは、アメリカが「尋ね人」の放送番組においてすらも、広島・長崎の原爆の事実を隠蔽することに神経をとがらせていたということ。都合の悪いことはすべて覆い隠す、それが今のイラク戦争、テロ対策にも延々と引き続いてきている・・・

僕たちは、もっと戦後に何があったのか知るべきであるし、考えるべきであることをこのドラマを通して強く感じる。

 
005 11日(日) MONO 第34回公演 『地獄でございます』

作・演出/土田英生、舞台美術/柴田隆弘
出演/水沼健、奥村泰彦、尾方宣久、金替康博、土田英生

三鷹市芸術文化センター星のホール

【ストーリーと感想】
5人の男たちが、地獄をサウナと取り違える。サウナがどうも普通のサウナでないということに気づいて、自分たちが今どうしてその場所にいるのかを疑問に思い出し、自分たちが死んだという事実に思い至る。そうしてその5人の死の原因がお互いに関連しあっていて、そのために一緒にいることが分かる。

なんともいえぬユーモアを感じる。地獄の話だからブラック・ユーモアというべきかも知れないが、ずれたおかしみに笑いがある。金替康博のボケと尾方宣久や土田英生のツッコミの微妙なズレとその間合いの魔術で絶妙なおかしみを生み出す。ナンセンスの面白さ。

 
006 19日(月) ク・ナウカ 『奥州安達原』

作/近松半ニ、他、台本・演出/宮城聡
出演/(mover)美加理、大高浩一、寺内亜矢子、他

新宿・文化学園体育館

【ストーリーと感想】
ク・ナウカの代表宮城聡が4月から静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督に就任することになり、本公演がク・ナウカの最後の活動となることを案内でもらい、非常に淋しい気がした。

多くの劇団とのめぐり合いがそうであったように、ク・ナウカもシェイクスピアの作品を通して初めて知ったのだった。下北沢のザ・スズナリで『マクベス』を見たのがその最初であった。

ク・ナウカの舞台を見ようと思えばかなりの気力が必要だ。まず、マチネの公演がないので夜の時間の都合をつけなければならない。そして場所が大体において通常の劇場でなく、どこかの場所を借りての特設舞台が多いので、気を引き締めて出かけないといけない。僕がシェイクスピア以外のク・ナウカの公演を敬遠してきたのも、その時間的制約条件が大きかったためだが、今から考えるとそのような理由で足が遠のいていたのが悔やまれる。

ク・ナウカの特徴は話者と所作を演じる人物とが分離しているということが第一にあげられるが、この『奥州安達原』などは元々が人形浄瑠璃の演目であるだけに、その効果が十分に発揮される。

新宿の文化学園の体育館に作られた特設舞台は、白い三角形の舞台を中心に、左右に語り部の場所となる方形の台座と、三角形の舞台後方に矩形の舞台が漆黒のコントラストをなす。舞台後方には影絵を映し出すスクリーンの白い大きな布がかかげられている。体育館の半分を舞台構造で占めている。そして舞台と観客席の全周を、体育館の天井から床まで帆船のマストの索具のような白いロープがびっしりと渡している。

『奥州安達原』という外題そのものがケレン味のある作品のようであるが、ク・ナウカの舞台も終盤までの重苦しい雰囲気から終わりの場面では祭りのような気分になる。

ク・ナウカの通信誌『美をメハニハ』を読むと、宮城聡という演出家の目は、その背後から現在の世界の構造まで見通す凄さに感心する。奥州という異郷(異教)の部族滅亡の際に立つ岩手を通して、ムラを守ってアイデンテイテイを保とうとする姿から、アメリカとイスラムの対立まで広げて、その対立で得をする者のことまで考えを及ぼす。

世界を対立の構造で見極めようとする一方で、演劇のあり方を問い続ける稀有な演出家の一人だろう。


007 24日(土) 文学座公演『初雷』

作/川崎照代、演出/藤原新平、装置/石井強司
出演/倉野章子、清水朋彦、上田桃子、桑原良太、早坂直家、つかもと景子、八木昌子

紀伊国屋ホール

【ストーリーと感想】
「異形家族」という言葉はこのドラマで始めて知ったが、叔母が母親代わりとして主婦の座を占めているというそのありようは異形ではあるかもしれないが、現在の家族のありようをみていると家族の形をなしていてもいびつな家庭のほうがはるかに多いように思われる。

子供たちが成人して自分の役割を終えたと思うその叔母理子みちこ(倉野章子)が、自立を思い立つことでドラマの展開が始まり、キャリアを捨ててまで兄の家庭になぜそこまで尽くしてきたかということも劇中明らかになっていくが、そこで感じさせられたのは女性の自立というより、「家族の自立」というものだった。

子は親の背を見て育つというが、それも今では死語に近い。しかしこの異形家族の中で、姪の智子(上田桃子)も甥子潤一(桑原良太)もその叔母を実の母親以上に慕って育っているのが感じられる。その核をなすものはやはり食事である。手作りの食事、家の味を通して子供は育つものだと思う。これまでの手料理がスーパーの惣菜や仕出しものになったとき、理子の家庭料理になれていた彼らの口に合わないのだった。

15年前、理子の兄篤志(清水朋彦)は43歳で妻を亡くし、その兄嫁の死後理子は、管理職目前のキャリアを捨てて兄の子供たちの面倒を見ることになる。その一見不自然な行動も実は兄嫁に対する贖罪であることが分かる。身体の不自由になった父親を兄嫁に押し付けてしまい、その兄嫁が介護の疲れで父の死後あとを追うようにしてすぐに亡くなったことへの贖罪意識。兄嫁の理子への最後の言葉が「子供たちをお願いします」だった。

その子供たちも、姪の智子は社会人となり、甥も二浪の後無事に大学に入学。兄篤志は定年まであと2年。そこで理子は自立を思い立つわけだが、現役時代バリバリに仕事をこなしていたのも過去の話で、今では何がしたいのかも見えない。また五十を過ぎた年齢では職もあるわけがない。そこへ突然降って湧いたかのように、かつての父の教え子山岡(早坂直家)が恩師の亡父に線香をあげるために立ち寄り、自分の事業の仕事を手伝ってほしいと頼む。篤志は理由も言わず反対し、それに対して理子も感情的に反発するが、やがては互いが心に秘めた秘密を打ち明けあうことになって、理子がなぜ仕事を捨てて兄の子供たちの面倒をみるようになったのか、そしてなぜ兄が高校の同級生であり、父の教え子である山岡に警戒心と敵意を持っているかの理由が明らかにされる。

そして潤一が案内してきた突然の客によって、智子が子持ちの男性と付き合っているばかりでなく、その男性と結婚しようと考えていたことが明らかになる。初めはそのことに反対だった理子も、智子がしっかりと理子の姿を見ていて決意しているのを知って後押しをするようになる。

現在失われつつあるものがここには確かなものとして残っていて、ドラマを見終わった後、非常にさわやかに感じた。


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