作・演出/長塚圭史、美術/二村周作
出演/岩松了、富田靖子、近藤芳正、菅原永二、峯村リエ
新国立劇場
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【感想】
人は、それぞれに病んでいる。もしくは心に闇をかかえている。
震災後、崩壊した二階家の二階だけが残っていて危険地域で立ち入り禁止の区域であるにもかかわらず二人の兄妹が暮らしている。
震災の前には妹麻希子(富田靖子)が精神を病んでいて、兄晃郎(近藤芳正)が面倒を見ていた。そして震災の後には、兄はアル中となり、酒ないでは過ごせなくなり、食料の配給チケットまで酒に変えてしまう。
麻希子は、日陰に作った土の代わりに砂利でこしらえた菜園に、食料とするために何かの種を植えて、毎朝貴重な水を与えるのを日課としている。そして夕方には麻希子に思いを寄せる警察官村田(菅原永二)が届けてくれる配給のわずかな食料をさいて、潰れてしまった一階に埋まっている父に与える。父が生きているということは幻想でしかないのだが、麻希子には砂利の菜園から植物の芽が出てくるという期待(あるいは希望と信念)と同じくらい真実なことである。
そこへ一人の小説家一ノ瀬(岩松了)がやってくる。一ノ瀬にはどうやら見えない虫がとりついているようだ。一ノ瀬は才能がないのに、編集員であった晃郎の上司であった一ノ瀬の父親の願い(指示)で、一ノ瀬の文作を手伝い作品を掲載するが、ついに見限ってしまう。そのことに怒って一ノ瀬は晃郎を訪ねてきたのだった。そしてそれから3人の奇妙な共同生活が始まる。
麻希子は一ノ瀬の兄への怒りを抑えるために、一ノ瀬が冗談半分に言ったタバコとチョコレートを求めて、外の世界へと初めて一人で出て行く。そのことを知った晃郎は気が狂ったようにして、妹を探しに行くように一ノ瀬に頼む。麻希子はせっかく落ち着いてきているのに、外へ出て行くことは非常に危険だというのだ。しかし本当に外に出て行けないのは、実は晃郎だということが分かる。
外に出て行った麻希子は、そこでボランテイア活動しているという鳥居(峯村リエ)と出会い、ボランテイアの仕事を引き受ける。そのボランテイアとは淋しい思いをしていて話し相手を求めている人の相手をすることだという。それがどんな仕事であるかは容易に想像できることなのだが、麻希子にはそれが本当にボランテイアの仕事だと思っている(あるいはそのフリをしている?!)。しかし麻希子は別の自分に目覚め、配給や待遇に差別を受けている中国人や韓国人の子供たちへの相手をするという本当のボランテイア活動も始める。
このドラマでは、特に鳥居の台詞においてであるが、中国人や韓国人への差別的表現が多発される。それは関東大震災の後のような状況を髣髴させるものだった。
麻希子は事件に巻き込まれ、そのことを村田が泣きながら晃郎に伝えにくるが、「麻希子さんが、・・・・・」のあとの言葉が出ない。
一ノ瀬は、晃郎に促されて自分で小説の筋を考えていく。
一人の女がいて、砂利の菜園に一生懸命水をやっている。女は何の種を植えたのだろうか?その解決を求めて考える。そして一ノ瀬は考えつく。植えるべき種などなかったのだと。かわりに女は土に手紙を植えた。そしてその願いが届くようにと土の奥深く埋め込んだ。
その女は、「アジアの女」だと一ノ瀬は叫ぶ。
そして恐れていた余震が突然襲ってくる。
闇が晴れて、明るい光が燦然と輝いている。
女の願いが届いて、そのあたり一面に草が芽を出しているのだった。しかし、もうそこにはいるべき人がいない。虚無だけがある。真空地帯のようにして。そしてそれがこのドラマの終結―。観客のかすかなとまどい。
話の筋を追っても何にもならないが、虚無的な不条理を感じるドラマである。
(休憩なしの約2時間の上演時間) |