シェイクスピア以外の観劇記録・劇評

 

8月の観劇日記
 

025 14日(月) こまつ座公演 『紙屋町さくらホテル』 

作/井上ひさし、演出/鵜山仁、音楽/宇野誠一郎、美術/石井強司
出演/辻萬長、土居裕子、木場勝己、森奈みはる、久保酎吉、河野洋一郎、大原康裕、栗田桃子、前田涼子

紀伊国屋ホール

【感想】
娘の七保と観劇。自分にとっては3度目の観劇であるが、七保には、この作品は笑って、泣くということだけを伝えていた。1幕目では戦争に関しての知識がまったくない七保にとっては内容が理解できないでいたが、それでも途中台詞の面白さに結構笑っていた。しかし2幕目の後半で、例の大島教授(大島酎吉)が教え子の両親への手記を読む場面では、ぼろぼろに泣いていた。僕はもうその場面に入る前から喉がつまって、涙をこらえるというより嗚咽をこらえることが困難であった。

この作品には語るべきことが多く、とても一つの形でその感想を納めきれるものではないけれど、それだけに何度観ても新鮮な発見がある。

つい先月新国立劇場で上演された『夢の痂』でもって井上久の「東京裁判三部作」が完結したが、それは戦争責任というものを多面的な角度から見直しさせるものであったが、この『紙屋町さくらホテル』においても、1本の太い柱にそれがある。

冒頭の場面は、巣鴨拘置所にかつての海軍大将長谷川清(辻萬長)が、自分を戦争犯罪人として拘留するように押しかけてきている。彼に応対しているのが、戦争犯罪人を暴きだすのにGHQに協力して働いている元陸軍中佐の針生武夫(河野洋一郎)で、彼はかつて天皇の密使であった海軍大将長谷川の命を狙っていたという因縁をかかえている。長谷川は戦争における数々の自分の関与する経歴を数え上げるが、針生は長谷川が当事者としていずれもその場に彼が居合わせておらず、責任がないことを証明していく。長谷川は自分の戦争責任を反論されることで、最終的には結局天皇の責任を語ることになる。長谷川は天皇の密使として陸軍の本土決戦の実態を調査して周り、天皇にありのままを伝え終戦を促す。しかしながら、大日本帝国憲法第一条にこだわっている間に、沖縄の守備軍の全滅、東京の大空襲爆撃、そして広島があり、長崎があった・・・。天皇の速やかな決断を促すべきであった自分の怠慢を責めているが、その実天皇の英断があれば、無辜の命が失われずにすんだ(かもしれない)という責任。長谷川は終始自分は天皇の名代であった、ということを繰り返す。そのことはとりもなおさず、名代という言葉を借りて天皇の責任を語ることにほかならない。

東京裁判は戦勝国による一方的な裁判で無効と主張することで戦争責任の所在をあやふやにすることを井上ひさしは「東京裁判三部作」で鋭く抉り出していったが、この作品では際どいまでに天皇の責任を追及しているといえる。

戦争責任といえば、今でもイラク戦争を始め、各地で戦争が絶えないが、アメリカの関与する戦争においてアメリカの独善性と一方的な正義の主張は昔も今も変わらない。神宮淳子(土居裕子)を通して語られるカリフォルニア州における日系人強制収容の問題がそれである。僕は彼らの憤りの、やり場のない無念さの気持をどのように同情したらいいのか尽くせない。それは今、アメリカがイラク戦争でやっている罪もない人間を含めて、理由もなく、裁判もないまま長期に強制的に拘留し、あるいは拷問のような行為をしているという事実へと通じてくる。僕には、神宮淳子の叫びがそのまま現代のアメリカへの糾弾として聞こえる。

今日、8月15日は終戦記念日である。朝のニュースでは小泉首相の靖国神社参拝を繰り返し報道している。8月15日の靖国参拝は首相の公約であり、それは今も生きている、靖国参拝はいつ行っても批判は起こる、そして首相の言い分は、それは個人の「心の問題だ」という。それを他人(他国)が非難する方がおかしい、というのが小泉首相の終始一貫した主張である。

僕は小泉首相の「思いやり」という心の姿勢の欠如を感じてならない。それは韓国や中国の批判に言いなりになることとは別の問題と思う。

最近では、井上ひさしの劇を観ていると、このような政治的なことを語らざるを得ないような、そんな問題提起を感じてしようがない。何か見えないものへの怒り、苛立ち、焦燥感・・・。

こまつ座によるこの『紙屋町さくらホテル』の三演が早くも来年5月、俳優座で公演されることが決定。神宮淳子に中川安奈が演じる以外は、今回のキャストと全く同じである。このような作品が繰り返し上演されることは、貴重なことだと思う。

 
 

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