シェイクスピア以外の観劇記録・劇評

 

7月の観劇日記
 
020 2日(日) 東京裁判三部作・第三部 『夢の痂

作/井上ひさし、演出/栗山民也、美術/石井強司、音楽/宇野誠一郎
出演/田中壮太郎、千葉哲也、坂口芳貞、西山水木、小飯塚貴世江、山本龍二、他

新国立劇場・小劇場

【感想】

日本語には主語が隠されている。その主語は、その時の状況であり、それはいかようにも変りうる。

日本の戦争責任は、天皇の国民への謝罪なくしては終わらない。

井上ひさしのこの戯曲を通して語られる、この二つのことは、このたびの戦争の責任が我々自身の中にもあり、そして何よりもその最高責任者であった天皇にある、ということを今あらためて考えさせられる。

昭和天皇の地方行幸については、小学校時代に経験したことがある、と記憶している。僕の生まれ育った北九州、小倉にも来たことがある。手に旗を振って出迎えた記憶が遠い面影として残っている。あれは確かな記憶であろうか?!

7月3日付けの毎日新聞世論調査で、戦争責任などについての国民と国会議員の意識調査をした結果が発表されており、その歴史認識について差があることが報告されている。その中で東京裁判に対する評価として、「不当な裁判だが戦争に負けた以上、やむを得なかった」が59%、「戦争責任者を裁いた正当な裁判」が17%、「戦勝国が一方的に裁いた不当な裁判」が10%で、議員アンケートとほぼ同じ傾向を示した、とあった。

井上ひさしの劇を観た後であっただけに、興味を感じざるを得ない結果であった。

 
021 7日(金) 俳優座劇場プロデユース公演 No.72 『東京原子核クラブ』 

作/マキノノゾミ、演出/宮田慶子、美術/横田あつみ
出演/田中壮太郎、千葉哲也、坂口芳貞、西山水木、小飯塚貴世江、山本龍二、他

俳優座劇場

【感想】
物理学者朝永振一郎(田中壮太郎)をモデルにして、本郷にある下宿屋「平和館」を舞台に個性的な若者たちが集まった人間模様と、長屋的な友情関係のユーモアとペイソスにあふれた物語。

広島に原爆が落とされても、物理学者としての見方は全く異なり、彼らがまず先に考えるのは「先を越された」という意識であり、人間としての感情はその後でしかなく、そのことに気付いたときに慄然とせざるを得ない。


 
022 9日(日) 地人会第102回公演 『フィガロの離婚』 

作/ホルヴァート、台本・演出/鵜山仁、翻訳/新野守広、装置/倉本政典
金沢碧(アルマヴイーヴァ伯爵夫人)、松熊信義(スザンナの叔父アントーニオ/宝石店の店員)、他

紀伊国屋サザンシアター

 

【ストーリーと感想】
「フィガロ」といえばまず思い浮かべるのが、モーツアルトのオペラ『フィガロの結婚』。今回『フィガロの離婚』を見るまで、というかパンフレットの中身を見るまで、この『フィガロの結婚』の原作者がフランスの古典作家、ボーマルシェであることや、この作品がボーマルシェの「フィガロ三部作」の一つであり、第一部が『セビリアの理髪師』で、第二部がこの『フィガロの結婚』であり、第三部は余り知られていない『罪ある母』となっているなど、まったく知識を持っていなかった。オペラの方では『セビリアの理髪師』はロッシーニが作曲し、これも有名であるが、第三部の『罪ある母』は、フランスの音楽家ダリウス・ミヨーがオペラ化に成功しているが、あまり上演された話を聞かない。

以上の知識は、地人会のパンフレットに寄せられた指揮者若杉弘の「<結婚>なければ<離婚>なし―“おわり”よければ“すべて”よし―(シェイクスピア)」から引用したものである。

次は、オペラで「フィガロ」と「セビリア」を見てみたいと思った。

 
023 22日(土) 流山児事務所公演『無頼漢』 

原作/寺山修司、脚本/佃典彦、演出/流山児祥、音楽/宇崎竜童、美術/水谷雄司
出演/下総源太朗、塩野谷正幸、伊藤弘子、流山児祥、さとうこうじ、悪源太義平、深山洋貴、
青木沙織、他

ベニサンピット

 

【感想】
水野忠邦(流山児祥)の天保の改革で、江戸の文化は閉塞。その改革を止めようと河内山宗俊(下総源太朗)と金子市之丞(塩野谷正幸)、暗闇の丑松(阿川竜一)が立ち上がる。しかし、この反乱は密告によって知られており、失敗に終わり、宗俊は斬られて首を晒される。

その反乱に自分が主役でないからと加わらなかった元役者の片岡直次郎(池下重大)のところに、直次郎が退団した劇団志気(劇団四季を明らかにもじっている)の演出家はまぐり慶太(蜷川幸雄と浅利慶太をもじっている)がミュージカル俳優の直助、直哉がキャッツの姿をして、直次郎の復帰を頼みに来る。次回公演のチケットは完売したというのに、劇団のトップアイドル波路(立原麻衣)が松江出雲守(さとうこうじ)にかどわかされたための苦肉の策であった。直次郎は劇団志気が官制の御用劇団であることに成り下がったことに反発して退団しているので、承知しない。しかし長屋の住人の一人、死体洗いの名無しが河内山宗俊と生き写しであることから、先の反乱で生き残った金子市之丞は、彼を河内山宗俊に仕立て上げ、波路救出を名目に再び水野忠邦を襲うことを決意する。したい洗いの名無しは、波路の大のファンであり、大義名分関係なく葬旬と名乗って、直次郎たちとの大芝居に加わる。結局は、今度は金子市之丞も含めて全員が死んでしまう。

直次郎の母親おくま(青木沙織)が、すべてが終わってしまった舞台の中央前面で、ひとり七輪で秋刀魚を焼いている。そこに通りかかった森田屋清蔵(沖田乱)に、おくまは重大な発言をする。今度も前のときのように密告すればよかった、と。

最後、舞台の背景、青い空と白い雲の中に、泣き笑いの歪んだ顔をしたおくまの顔が印象的である。

水野忠邦の天保の改革は、奢侈禁制の規制強化であるが、株仲間や問屋の禁止など統制改革であるにもかかわらず、どこか郵政改革を思わさせるところもある。小泉内閣の改革は大半が国民の賛成と支持を得ているのに対し、水野忠邦の改革は江戸庶民をはじめとして、あらゆる層からの反発があったのが大きな違いに見えるが、いずれにしても改革に痛みはつき物であることは変わりないことを感じる。

寺山修司の目の付け所の面白さと、劇団流山児祥事務所のパワーを感じさせる舞台であった。

 

024 29日(土) 劇団AUN12回公演『トロイアの女』 

原作/エウリピデス、演出・構成/吉田鋼太郎
出演/吉田鋼太郎(ポセイドン)、沢海陽子(ヘカベ)、星和利(タルテユビオス)、千賀由紀子(アンドロマケ)、坂田周子(ヘレネ)、長谷川奈美(カサンドラ)、岩倉弘樹(太宰治)、他

高円寺・明石スタジオ

 

【感想】
シェイクスピアを演じることを生業としてきた劇団AUNがはじめてギリシア悲劇に挑戦。蜷川幸雄演出でギリシア悲劇に出演する機会が増えてきた吉田鋼太郎からすれば、やがてはたどり着く道であったという気がする。

ギリシア悲劇の壮大さが小劇場という空間で閉塞されてしまうのではないかという懸念をしていたが、それは杞憂であった。舞台そのものは小さいが、巨大な円形劇場の底で演じられているような錯覚を覚えるのは、吉田鋼太郎のギリシアでの公演の原体験が生み出したものであろうか、彼の言葉を借りれば「巨大な火柱を内包する」スケールの大きさを感じさせるものであった。その工夫の一つとして、床一面にくしゃくしゃにした新聞紙を敷きつめることで、舞台に無限の広がりを感じさせる。

舞台は、作家太宰治(岩倉弘樹)が書斎で回想にふけっている場面から始まる。太宰が出会った二人の青年の、その余りに若い死が語られる。一人は、病弱で徴兵されることもなく、太宰から作品の注意を受けてから会いに来なくなって、それから数ヵ月後に病死する三井君。その弟がりんごをお土産にして、三鷹の彼の元を尋ねてきて兄の死を伝える。今一人は、三田君といって、彼は徴兵されて最後にはアッツ島で玉砕する。三田君が最後によこしたはがきには、遠く彼の地まで着いたことの報告と、太宰に向って「大いなる文学のために死んでください。自分はこの戦のために死にます」とが記されていた。太宰はこの文面を何度も声を出して読み返す。その声が、しんしんと胸に高まって響いてくる。その高揚を感じるころあいをみはかるようにして、軍服姿をしたポセイドン(吉田鋼太郎)が登場する。吉田鋼太郎の台詞が力強く、格調高く、回想の世界から遥か悠久の古代ギリシアの世界へと雄飛させる。

場面はギリシアに敗れたトロイアの町へと変わる。ヘカベ(沢海陽子)が夫プリアモスを殺され、息子たちが殺された悲憤の嘆きを語る。ギリシア悲劇の登場人物の名前の覚えにくさは、ちょうどシェイクスピアの歴史劇、イングランドの貴族たちの名前と同じであるが、このヘカベの嘆きは、シェイクスピアの『ハムレット』で、旅回りの役者たちの座長がハムレットの要望に答えて語る台詞でなじみが深い。また、ヘカベの息子のヘクターやその妻アンドロマケ(千賀由紀子)、巫女のカサンドラ(長谷川奈美)なども同じくシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』に登場してくるので、シェイクスピアを通した親しみを覚える。

ギリシア悲劇は、その悲劇の内容をこれでもかこれでもかというほど、畳み掛けるかのようにしてくる。なるほど、カタルシスという言葉はギリシア劇のためにこそあるという感じである。

トロイアの町がギリシア軍に焼き尽くされ崩壊して、トロイアの女たちはそれぞれ別れ別れにギリシア軍に連れ去られていくことで舞台は閉じるのだが、吉田鋼太郎の演出にはもう一ひねりの工夫がある。

最後に、もう一度太宰治の書斎の場面に戻る。太宰はすわり机の中央から脇に場所が移って、中央にはヘカベ、カサンドラ、そしてヘクターの妻アンドロマケとその子供が、安らかな顔をして静かに座っている。彼らの顔がにこやかに微笑んでいるかのように見え、照明がフエージングしていく。― 静かな余韻と、あとは、沈黙。

エンデイングの「コスモスの唄」など、吉田鋼太郎の音楽の使い方のうまさは蜷川幸雄と同じものを感じる。

 
 

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