02年の観劇日記別館
 
  東京アンサンブル公演 『常陸坊海尊』      2002.10.07
 

 芝居小屋に入ると、舞台装置にまず目が行く。といっても特別なものがあるわけではない。張り出し舞台に、二方向、八の字に鉄骨で組んだ橋懸りが客席に伸びて、客席はその間を縫ってピットの中に収まる感じである。舞台は開演前からスモークで煙る。芝居小屋全体が舞台の印象。

 秋元松代の『常陸坊海尊』を観るのは、蜷川幸雄演出以来2度目であるが、今回広渡常敏演出にして初めて、この劇の根源的な疑念にぶつかる。そういえば、蜷川幸雄も秋元松代の戯曲を認めているわけではないし、今回の広渡常敏からして、秋元松代が好きではないと言っている。なのになぜか、秋元松代であり、『常陸坊海尊』。

 この劇の根源的な問いの第一は、昭和20年に、なぜ750年前の常陸坊海尊の生霊なのか、ということ。劇では常陸坊海尊は、頼朝に追われる義経一行と東北に一緒に落ち延びるが、そこで義経を裏切ってドロップ・アウトし、その悔悟の念に襲われて、常陸坊の生霊は750年もの間、この世をさ迷い続けていることが語られる。

 その生霊のミイラを守る巫女のおばば(滋賀澤子)。常陸坊海尊の生霊は、ミイラによって継承されていく。おばばの後を継ぐ娘雪乃(折林悠)に魅入られた学童疎開の小学生だった啓太は、おばばをミイラにし、そのため懲役の刑に服すが、その後も雪乃の下男として奴隷のように尽くす。

 時代はそれから20年も過ぎ、啓太の友人で同じく学童疎開児であった豊が、休暇で東北のとある神社に、その啓太を訪ねてやってくる。が、実はそれは雪乃に会いたいがためであった。そのことが自分でもわかっていなかったのが、雪乃に突き放されてはじめてそのことを理解する。雪乃と出会ってその魔力に魅せられた人間は、心に常陸坊海尊を抱くことになる。「東北」、「学童疎開」、「東京空襲」、「孤児」、「巫女」、これらの言葉がキーワードとなって、物語は怪しく展開していく。

 土俗的、フォークロア的な物語に、非常に政治性を感じさせる、不思議な、スケールの大きな劇である。

(作/秋元松代、演出/広渡常敏、音楽/林光、装置/高田一郎、
ブレヒトの芝居小屋にて、10月7日夜観劇)

 

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