高木登2001年の観劇日記別館
 
  アクターズスタジオ櫻会第9回公演 「幽霊」
 

 「あーでんの森」ホームページに掲載した櫻会公演「ハムレット」の観劇日記が縁で、ハムレットを演じた貝塚秀人氏から丁重な手紙と「幽霊」の公演案内をもらい、実に30年ぶり以上でイプセンを読み返すという貴重な体験をした。

 ところが驚いたことに、近くの区民センター(高井戸)の図書館には1冊のイプセンもなかった。文庫本ですら置いていないのだ。図書目録を検索しても結果は同じであった。イプセンはそれほど忘れられた遠い作家なのであろうか。

日本では地道にイプセンを上演している劇団が確かあったと記憶しているが。

 最寄りの図書館にないということで、岩波文庫から出ている原千代海訳になる「人形の家」、「幽霊」、「野鴨」、「ヘッダ・ガーブレル」の4冊を買いこんで読んだ。

 舞台としては95年に無名塾による仲代達矢主演の「ソルネス」(池袋・サンシャイン劇場)を観たのが、後にも先にも初めてで最後であり、過去にも戯曲を読むだけの経験しかなかったといえる。

 イプセンといえば社会問題劇という印象が強い。<因襲>という社会の俗念に対する非難、告発ともいうべきテーマを抱えている。世間という社会の断面を抉りとって、その傷口をこすりつけるようなところがある。それが当時においてノルウエー国内世間の反発、非難を招いた大きな原因でもあった。

 イプセンの生涯をみると興味深いことに、26本の戯曲のうち大半がノルウエーから離れて海外にいる時に書かれ、発表されている。イプセンは27年という長い歳月を、ローマ、ミンヒェンと移り住んでいる。しかしながらその作品は、一貫してノルウエー国内の社会問題、過去の因襲批判をテーマとしている。

 シェイクスピアと比較して面白いのは、一度もイングランドを離れたことがない(と思われる)シェイクスピアが選んだ場面設定が、歴史劇と例外的な作品「ウインザーの陽気な女房達」を除けば、すべて外国が舞台となっていることである。

 イプセンは海外にあって、常にノルウエーを書いている。

 また、シェイクスピアが古典的戯曲の手法である三一致の法則を自由奔放に無視しているのに対し、イプセンは見事と言うほどに三一致の法則に従っている。

★ オスヴァルはイプセンだ!

 今回非常に印象深かったのは、貝塚秀人のオスヴァルを観ていて、突然、「オスヴァルはイプセンだ」と閃光のように閃いたことだ。さらに言えば、オスヴァルは因襲の病巣に悩む国家ノルウエーの体現だと瞬間的に感じさせられたのは、自分でも驚きであった。

 オスヴァルは、母ヘレーネ・アルヴィングが亡くなった夫アルヴィング陸軍大尉の功績を記念して建てた孤児院の完成記念式典に参列するため、長い海外生活からノルウエーに戻ってきた。

 ノルウエーは閉塞的社会である。アルヴィング家をめぐる5人の登場人物も微妙に絡み合って、遠くて近く、近くて遠い人間関係を織りなす。

 オスヴァルとアルヴィング夫人は、親子という肉親的に最も近い関係でありながら、地理的には最も隔たっている。オスヴァルが物心つき始めたとき、母親のアルヴィング夫人が堕落した夫の影響を畏れて幼くしてパリへと送り出し、長い間離れて暮らしていたのだった。オスヴァルはパリの自由な空気を吸って画業に励んでいたのだった。

 孤児院建設に携わっている指物師エングストランの亡くなった妻は、かつてこのアルヴィング家の女中をしていた。ところが主人であるアルヴィング大尉との不義の関係で身籠もり、理由を付けてエングストランと夫婦となる。そして生まれた子が、今またこのアルヴィング家で召使いとして働いているレギーネである。もっともこの事実を知っているのは、これまでのところエングストランとアルヴィング夫人だけである。

 そして孤児院建設に当たって事務処理に奔走しているのが、牧師マンデルス。マンデルスとアルヴィング家(あるいはアルヴィング夫人)との関係は、夫人の新婚時代にさかのぼる。新婚当初、夫の放蕩不行跡に我慢が出来ずアルヴィング夫人は家出をし、マンデルス牧師の所へ駆け込む。しかし夫に従うのが妻の義務だという説得で不承不承に家に戻ったという経過がある。

 5人の登場人物がこのように複雑な心理的関係の背景をもつ。その象徴が孤児院である、といえる。

 すべての破綻の発端が、完成したばかりのその孤児院が火災で一瞬の間に燃え落ちたことで始まる。いや、破綻はすでにあったのだが、それを認知する象徴として、孤児院の火災が必要だったのである。アルヴィング陸軍大尉の遺産を注いだ孤児院、それは大尉の功績を称える虚偽の行為であったが、それが焼け落ちるということで、ヘレーネ・アルヴィングの過去の絆、因襲を断ち切るという触媒作用を果たしたのだった。

 夫アルヴィングの不行跡はヘレーネが家出から戻った後も一向に改まらず、息子オスヴァルを産んだ後のヘレーネは、一切の事業を自分の手中に収めながらも夫の名義で事業を発展させ、アルヴィングの社会的名声、地位を押し上げた。それは少なくとも外見的にはヘレーネが社会の因襲に従った結果でもある。

 その古い社会の因襲の象徴はマンデルス牧師である。マンデルスは、自由、解放の思想というものに対して偏見と嫌悪を抱いている。ヘレーネが読んでいる本の題名だけで、自分では決して読んでもいないのに、他人の批評・批判の口を借りて非難する。マンデルスには自分という主体がない。これは、デンマークの支配下にあったノルウエーという国家そのものの体現、象徴ともいうべき存在である。自己、自立の精神がないのである。

 だが、マンデルス牧師の不可解な行動の一つが、完成した孤児院に理由にもならないような理由を付けて(つまり、世間がどう思うかという他人の口を気にして)、火災保険をつけないことにヘレーネの同意を取り付ける。そして孤児院の火災である。その火災の原因も、マンデルス牧師の不審な行為がある。

 エングストランの提案で祈祷会を完成したばかりの孤児院で開くが、蝋燭の火を消すとき、その芯を指で切って鉋屑の中に捨ててしまう。それはまるで火災を意図的に仕組んだと思える行為である。弱みを握られたマンデルスは、エングストランの計画である海員ホームの建設に力を貸すことを誓う羽目に陥る。

 一方、画家をめざして修行していたオスヴァルは、パリで突如として発作に襲われる。その原因が父親の不行跡の結果であると医師に宣告されるが、事実を知らないオスヴァルは、母親の手紙を見せて反論する。その発作は死に至る病で、次に起これば死を意味する。それは、オスヴァルの病巣というより、ノルウエーの病巣である。

皮肉にも事実を知らないオスヴァルは、それが遺伝であったならと願い、自分の病気を救えるのはレギーネだけだと思いこむ。

 真実を知るアルヴィング夫人は、息子の告白を聞いて絶望感に襲われる。<幽霊>が現れたのだ。

 だが、今こそは真実を語れる。孤児院の火災という象徴的な事件によって、全ての事実をオスヴァルとレギーネの二人に語る決心をする。

 事実を知ったレギーネは、開き直りの態度をとる。

 これまでのレギーネは、オスヴァルによってこの閉塞したノルウエーを捨て、パリに一緒に行くことだけを希望にしていた。だが、オスヴァルとは腹違いの兄妹だったのだ。しかもオスヴァルは病人ときている。病人の世話などまっぴらだと、アルヴィング家から暇をとって出ていく。

 レギーネは<新しい女>に見えたが、実は<因襲の女>だった。自ら母親の血を引いた<堕落した女>を演じて、捨て台詞を残して去っていく。レギーネは堕落という母からの呪わしい過去の遺伝を引きずっている。病巣の因襲を背負っているのである。

 この物語で<解放された精神>の持ち主は、ただ一人、ヘレーネ・アルヴィングだけである。

 オスヴァルは、パリで新しい空気を吸いながら、結局、遺伝=因襲で自滅するしかなかった。

 だが、自立した<解放された>新しい女であるアルヴィング夫人も、結局は全てを失う。

 <幽霊>とは、アルヴィング大尉という病巣の幻影を媒体とした、ノルウエーの因襲の表象化にほかならない。

★ 櫻会による対話劇の体現   

 この度の「幽霊」の舞台では、オスヴァル役の貝塚秀人が電気的ショックを感じさせる演技で、イプセンを体現し、作品の解釈に深みを注いでくれた。

 北原優佳のレギーネ・エングストランもユニークであった。最後の場面で、オスヴァルの願いを振り切って、捨て台詞を残して家を出ていくレギーネは冷徹で、しかも娼婦的な香りを残していくのが印象的であった。

 小山陽一のエングストランは、小市民的卑屈さをもった狡猾さをうまく演じている。その脂ぎったような台詞がいい。

 牧師マンデルスの木村義信は、生真面目で不器用な演技が、この劇全体の登場人物の不調和というマイナス要素にマイナス要因を掛けることで、プラスを引き出すという逆説的なアンバランスの調和を生み出しているのが何とも言えない感じを残してくれた。

 アルヴィング夫人の吉村昌代の台詞は、他人行儀な台詞で、不確かなアンバランスさの際どさの中に忘れがたい印象を刻みつける。

 このように一人一人の演技が肌に近く感じられる舞台の雰囲気は、スタジオ公演ならではのぜいたくとも言える。最前列の席では、平土間の舞台に立つ俳優との距離が文字通り目と鼻の先で、演技者の心音までが感じられる気さへして、観客である自分までもが、その舞台に参加している親しみを覚える。

 対話劇の醍醐味を2時間たっぷりと楽しんだ。

 この場を借りて、案内をいただいた貝塚秀人氏にお礼を申し上げる。

● 観劇日 9月4日(火)

● 作/ヘンリック・イプセン、訳/原 千代海、演出/沢田 次郎

● 会場/中野新橋・櫻会スタジオ


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