高木登2001年の観劇日記別館
 
  こまつ座公演 「闇に咲く花」      2001年8月15日
 

 8月13日、小泉総理は国内および近隣諸国の状況から、当初予定していた終戦記念日の15日に参拝する予定を前倒しして、靖国神社に参拝した。参拝に際して首相は、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳したが、いわゆる「二拝二拝一拝」の神道形式ではなく一礼するだけにとどめ、玉ぐし料の代わりに「献花料」を私費で支払った。

 演劇の公演は通常上演の1年以上も前から設定されるので、こまつ座の「闇に咲く花」の公演日程も、小泉首相の誕生前から決まっていたことで、いわんや靖国問題など預言する由もなかった。

 終戦記念日の前日14日を初日に、「闇に咲く花」はその4回目となる再演の幕開けをした。小泉首相が靖国参拝を断行した翌日という象徴的な日の幕開けとなった。

 僕自身は、この作品は99年11月、同じく紀伊国屋ホールでの公演以来2度目の観劇となるが、今回はその小泉首相の靖国参拝問題という時事的問題をかかえ、偶然と言うにはあまりにも運命的必然性に、演劇の持つ予言的力とでもよぶべき不思議さに驚嘆した。

 この作品自体は多重的というか、多層的というか、井上戯曲の特色である一筋縄ではいかない筋の展開を持っている。

 時は昭和22年夏。場所は神田猿楽町愛敬稲荷神社。

神主の牛木公麿(名古屋章)が昼寝から覚めたところへ、愛敬稲荷神社のお面工房で働く5人の戦争未亡人達が、妊婦を装ってお腹に隠した闇米を検察の目を無事くぐり抜けて帰ってくるところから物語は始まる。

この戦争未亡人達はそれぞれに家庭に問題を抱えているが、生きることについてはたくましく、ある意味では底抜けの明るさを持っている。それが生きることのエネルギーとなっているのが、舞台を通して伝わってくる。これは井上戯曲の庶民讃歌でもある。

その戦争未亡人達が、苦しいときの神頼みで神社の御神籤を引く。5人が5人とも大吉で、それが皆が皆、御神籤の言葉が実現する奇跡となり、御神籤を作った本人である神主の牛木もそれにあやかろうと、大金が入るようにと祈願してその御神籤を引くと、これもまた大吉。その文句は「百の玉子を積み重ねるような奇跡」が起こると書かれている。

奇跡は起こった。戦死したはずの一人息子健太郎(千葉哲也)が突然帰ってきたのである。健太郎は撃沈された際の頭部の打撲で記憶喪失となっていて連絡も出来ないでいた、偶然のきっかけで記憶回復したことで、今こうしてぶじに帰ってきた。

そして健太郎が引いた御神籤は凶。

禍福は糾える縄のごとく、また喜怒哀楽は彩なす糸のごとく、井上戯曲は変転する。

その健太郎をC級戦犯として追求するGHQ法務局主任の諏訪三郎(たかお鷹)が現れ、GHQ本部へ連行しようとする。余りのショックで健太郎は再び記憶喪失となる。

神社の境内の混血児の捨て子を見て、健太郎はそれは自分だ、と言う。幼児記憶の回帰である。健太郎は実際捨て子だった。妻子を同時に失って、自分を失っていた時に、境内に捨てられていた健太郎を牛木が実子として養育したのだった。

記憶を喪失した健太郎の記憶を再び回復しようと、幼なじみの親友で神経医師の稲垣善治(茅野イサム)が、健太郎の記憶の島を必死でつなぎ合わせようと努力する。記憶が戻ればC級戦犯として逮捕されので、牛木公麿も未亡人達もいっせいに反対するが、稲垣は記憶が戻れば、長野にいる親戚の炭焼き人として匿うつもりだと聞いて、逆に感謝する。

稲垣の努力で記憶が回復した健太郎の言葉が胸を刺す。

戦争中、たくさんの戦死者が神社の境内で焼かれて葬られたことを聞いた健太郎は、父親に神社が神社でなくなったと糾弾する。

幼い頃、父は、神社は明るく人の心を和ませる場所であると健太郎に教えた。だから、神社では葬式はしないのだと。それが、神社の境内で戦死者を焼いたことで、神社が神社でなくなった。健太郎は言う。お父さん、忘れてはいけないよ、ここから幾人の人を戦地に送り出したかということを。

忘れてはいけないという健太郎の言葉は、彼の二度に渡る記憶喪失症に象徴化される。

記憶を取り戻した健太郎を待ち受けていたのは、GHQの諏訪。健太郎のしゃべった言葉をすべて録音しており、もう取り返すすべもない。健太郎はC級戦犯としてフイリピンに送還され、わずか3日間の公判で処刑された。

健太郎は現地で残虐行為をしたわけでもなんでもない。彼が現地の人間とキャッチボールをしていたとき、運悪くその玉を取り損ねた相手が額に球を受け、脳震盪で倒れた。それが故意による拷問として糾弾されたのだった。

そこには東京裁判に対するもう一つの批判が読みとれる。A級戦犯とは異なるBC級戦犯に対する問題を含んでいる。本当に裁かれるべき人間が正しく裁かれたのか、という問題。

庶民の生きることのたくましさを喜劇的にシリアスに描いているのが、闇取引。

牛木をスポンサーに5人の未亡人達は闇商売をする。妊婦を装った闇米運びは陳腐化し当局の知るところとなり、あっさり没収される。今度は当局の裏をかくべく、統制価格で没収引き取りを前提に、闇物資の運搬を画策。トラックを仕立てて、銚子から腐った鰯を運び、統制価格でやみ違反として没収買い上げを目論んだが、これまた同様の手口が先にありあえなく失敗。全財産を失っただけでなく、1万5千円という莫大な違反金という罰則付きで。このお返しは、神田警察署猿楽町交番の鈴木巡査の手助けで、当局の裏の裏をかいて溜飲を下げる。鈴木巡査は、それを機に、亡き健太郎に替わって愛敬稲荷神社の副宮司となる。

健太郎は本当に帰ってきていたのだろうか?

愛敬稲荷神社を取り巻く人々はそんな気持に浸りながら、今また二人の混血児の捨て子を育てている。それは忘れてはいけないよ、という健太郎の声を代弁している。そして、その二人の捨て子は健太郎が捨て子であった事と重なり、物語は繰り返しを予想させる。

「闇に咲く花」のテーマは「忘れてはいけない」という<記憶の問題>がテーマである。

国を安らかにするのが靖国神社であるのなら、人の心の安らぎを忘れてはいけない。

こまつ座第63回公演、
作/井上ひさし、演出/栗山民也、美術/石井強司、音楽/宇野誠一郎、
8月14日、紀伊国屋ホールにて観劇


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