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『ハムレットマシーン』を観るのは、というか論じるのは難しい。そもそもオリジナルの形を知らないので、どれが正しい(?)のか自分には判断できない。
初めて観た『ハムレットマシーン』は、2000年にAGUA GALA(アグアガラ)が公演したもので、その時の印象を観劇日記では、「言葉ではなく、肉体の叫びによって表現する」、「シェイクスピアが<見る>前に<聴く>劇であることを思うとき、AGUA GALAのこの劇は、言葉の向こう側に目を向けて、既成の概念を解体する」と記している。
次に観たのは、2002年、笛田宇一郎の「21世紀演劇 Vol. 3、笛田宇一郎事務所公演、『ハムレット/臨界点』で、この劇については、観劇日記で「笛田宇一郎の演劇論を舞台で具体化して表現」で、「ハムレットの存在は、いうなればその臨界点の極限状況でのありよう、とも言える。そのバランスをかろうじて支えるのが、「私は、ハムレット・・・だった」という自己の仮面化による逃避、ハムレットであり続けることはできない」と書いている。
「わたしはハムレットだった」ということは、今ではハムレットではないということを明示するが、では現在の彼は何者なのか?!現在の彼は「ハムレットだった」時(過去)と紙一重の所にいて、そのすぐ先は不安定な未来でしかなく、その未来像は未定である。そこからハムレットの解体が始まる。
『ハムレットマシーン』はそのハムレットの解体作業に観客はつきあわされることになる。
ハイナー・ミュラーは『トリスタンとイゾルデ』の演出のあい間の1995年夏、ペーター・フォン・ベッカーとの対談の中で、<過去に比べれば、現在とは常にわずかなものです。そして未来は時に応じて増減する。現在とはひどく希薄なもの、過去はそれより遥かに豊かな時を、深みのある空間を、質量をもっている」と語っている(『ユリイカ』1996年5月号)。
5人の若い男女の俳優たちが『ハムレットマシーン』の本を声に出して回し読みすることから始まる。その合間を縫って、はじめにその本を読み始めた若い女優が、ハイナー・ミュラーが生まれた年、その時はドイツはワイマール共和制の時代であったこと、ヒットラーによって共和制が終焉し、第二次世界大戦、大戦後の冷戦時代と東西ドイツの分離とベルリンの壁、ベルリンの壁の崩壊とソ連の解体などの歴史の変遷の文字がホリゾントに映像として映し出され、そうした一連の過去の出来事が語られた後、『ハムレットマシーン』の劇が何度も解体されて、いくつものバージョンとして舞台上で演じられる。
5人の若い俳優たちの演技は、遊びを知らない子供たちがそのまま大人になったような感じで、稚拙な感じである。今の子供たちは環境の問題もあって、外での肉体の遊び、馬飛びや肉弾、陣取り合戦など体を使った遊びを知らない、というか体験していない。そんな肉体を感じさせる彼らの身体の演技であった。
過去が執拗に繰り返され、現在は留まることなく、未来の展望は開かれない。バージョンの繰り返しは、その未来への展望をこじ開けようとする試みかも知れない。
この劇の終わりは唐突で、不肖化の感じが残り、結局、この劇は、自分で構築する以外にない。
上演時間は、70分。
原作/ハイナー・ミュラー、翻訳/谷川道子、構成・演出・美術/得地弘基
8月30日(土)15時開演、板橋区・サブテレニアン、
チケット:(『ハムレット』との通し券6000円)
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