江戸馨のシェイクスピア・カフェ No. 4  
        日英語朗読 『夏の夜の夢』 <人間版>
        No. 2024-027

 『夏の夜の夢』は、大きく分けて二つのパターンに分けられる。一つは妖精界と、今一つは人間界。或は昼と夜の世界、町と森の世界。また、人間界は、シーシュース公爵をはじめとする貴族階級と職人たち一般庶民階級に分けられる。今回の「人間版」は貴族階級の世界の出来事の場面を取り扱っている。
 いつものように、江戸馨の解説から始まる。前回と同じく、この劇のテキストとなっているアーデン版の紹介と、丹下一がアメリカ訪問時に見つけて買い求めたという本文だけからなるごく薄っぺらなテキストとを比較しながら、この劇そのものは非常に短く、アーデン版はその前半部がイントロダクションとして解説となっており、また本文の頁も半分は注釈となっていることを実物を示しながら説明し、東京シェイクスピア・カンパニー(TSC)が上演した時のチラシや、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー公演のチラシや、ピーター・ブルックの演出ではこれまでの演出とガラリと変わって、何もない空間での上演の可能性に目が注がれ、それを応用した出口典雄のシェイクスピア・シアターの演出などにも触れられた。
 ちなみに、TSCの2006年の公演は全員女性で演じられたが、あまり評判は芳しくなかったという。
参考までに、その時の自分の観劇日記の一部を紹介すると、
<『真夏の夜の夢』~「男性上位の世界」を覆す試みを女優のみで演じる>として、<江戸馨の「上演に寄せる口上」からすると、シェイクスピアの『夏の夜の夢』は男性上位の世界であり、高貴な魂の存在が欠けている、そして混乱の原因が人間の心ではなく、妖精の介入で生じることで人間性のドラマが欠如しているがゆえに、長いこと不満を感じられていたということである。今回、『真夏の夜の夢』は女優のみの上演であり、男性上位の世界を覆す試みがこの劇を女優のみで演じるという方法をもたらせたのであろうかと、興味を感じるところである。…この劇を観終わって感じたことは、江戸馨がこの演出において口上書きに記した、シェイクスピアの『夏の夜の夢』に対する不満が解消できたのであろうか、そして自分で納得できたのであろうか、ということであった。…パックのエピローグの台詞ではないが、半分以上はうたた寝に襲われてしまったのは、ドラマの起伏が緩慢なせいであったような気がする(2006年7月1日(土)観劇>と記している。
 今回の日英語による「人間版」朗読劇は、前半部を「アテネの掟」と題して、ハーミアがデミートリアスとの結婚を承諾しなければ、死刑かもしくは一生修道院で尼として過ごすかという選択を迫られる場面で、ライサンダーとの駆け落ちの計画と、ヘレナの登場でその事を打ち明けるまでの話で、ハーミアをつかさまり、ハーミアの父イージアスをマストメ(増留俊樹)、シーシュース公爵とライサンダーを丹下一、デミートリアスを江戸馨が演じ、その一部をマストメと江戸馨が再度英語で語った。
 後半部は、恋の薬を塗られたライサンダーとデミートリアスの二人がヘレナに求愛し、ハーミアとの三つ巴の騒動の場面で、この場面では丹下一がライサンダー、マストメがデミートリアス、江戸馨がヘレナ、つかさまりがハーミアを演じ、マストメと江戸馨は台詞の一部を少しだけ英語を交えて語り、これまでとは少し趣向を変えている。
江戸馨の翻訳の中で、「AI」やそれに続く「ロボット」などの現代性を表象する言葉が織り込まれていたのも特筆される。その語彙が発せられた時、一瞬、自分には思考がその一点に集中する効果をもたらした。
 後半後の解説で、男性の不実としてシェイクスピアの作品の中で、『ヴェローナの二紳士』のヒーローの一人、プローテュースの例を持ち出して話され、『夏の夜の夢』との観点を移した例として興味深く聴くことが出来た。
 解説の時間を入れてわずか1時間の上演時間であるが、充実した内容で、4人による朗読の魅力と佐藤圭一のリュートの演奏を楽しむことが出来、江戸馨の解説も非常に参考になった。その解説の内容についてはもっと記したいことが多いのだが、その時受けた感銘も、暑い日中帰っていく際に脳みそが膨張してしまって(?)、その内容が記憶から消え去って忘却してしまい、十分記録に残せないのが残念。

 

訳・構成/江戸馨、音楽演奏・作曲/佐藤圭一
7月23日(火)15時開演、下北沢・ピカイチ、料金:3000円(ドリンク付き)


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