2023年観劇日記
 
   新国立劇場バレエ団公演、シェイクスピア・ダブルビル
     世界初演 『マクベス』 & 新制作 『夏の夜の夢』    
 No. 2023-010

 バレエにはまったく見識もなく、映像では観たことがあるものの生の舞台を観るのは今回が初めてである。
 観劇のきっかけは、演目がシェイクスピアの作品であるということだけで、そうでなければバレエの公演を観ることはなかったことを考えると貴重な体験となった。
 シェイクスピアは言わずと知れた言葉の劇、それに対してバレエは言葉が一切なく、身体表現のみであり、言葉の劇がどのように表現、表出されるのか興味深かった。
 チラシのキャッチコピーには、『マクベス』を「野心・陰謀・錯乱―権力に翻弄された男の悲劇」として「世界初演」と記されていた。
 『マクベス』は、演劇の舞台ではそれこそ百回近く見ているので話の筋もよく分かっているだけに、言語表現がなくてもバレエの身体表現のみで表出されるのを見ても非常によく分かった、というより言葉の劇が見事に身体表現として再現されていると感じた。
 魔女の登場では、最初は3人のダンサーから、次には「三三が九」(魔女たちの台詞の中にある)となって、九人のダンサーによる魔女がマクベスとバンクォーの前に現れる。その魔女たちの衣装は白色(あるいは淡いクリーム色?)。
 ダンカンがマクベスの城を訪れたとき、お供にマクダフの家族のマクダフ夫人と二人の子供も含まれており、後の場面の伏線が感じられた。
 ダンカン暗殺の前の「幻の短剣」の場はなかったが、ダンカン殺害の場では台詞がないだけに舞台上で殺害の場がはっきりと演じられた。また、マクベスがダンカンの護衛を殺す場面も実際に舞台上で再現され、劇では台詞だけのところが実際に可視化されて演じられた。
 マクダフの城が襲われ、マクダフ夫人とその子供たちが殺されるが、そのことをマクダフにロスが報告する場面では、マクダフの子供が手にして遊んでいた玩具を血塗られた状態で手渡すことで、ロスがマクダフにその様子を伝えていることがよく分かる。
 マクベス夫人の死も同じように可視化され、マクベスが夫人の死を嘆いて夫人の死骸を抱いて踊ることで、Tomorrow speechの台詞に代わって、マクベスが悲痛に嘆く場として舞踊化される。
 イングランドからマルカムたちがマクベスを攻めてくるとき、舞台の天井から黄緑色の太い状のものが幾筋もぶら下がって見えることで、バーナムの森が押し寄せてくる場面として仮想化される。
 このように、『マクベス』のストーリーを知っている者には、場面場面の様子が頭のなかで言語化されて容易に想像できるのだが、この物語をまったく知らない人たちにはどのように受け取られているのであろうかと興味がわいた。
 バレエによる『マクベス』は物語性の強いバレエとして鑑賞できた。
 出演者は日替わりであるが、この日のマクベス役はプリンシパルの福岡雄大、マクベス夫人には同じくプリンシパルの米沢唯。
 1時間の上演時間の後、30分の休憩。

 続く『夏の夜の夢』のキャッチコピーは、「森の妖精たちが織りなすコミカルで美しい世界」と題された「新制作」。
 キャッチコピーが示すように、舞台はすべて森の中での出来事だけ。
台詞がないために、オーベロンとティターニアの争いのもとになっているインドの少年(ここでは妖精の取替え子とされている)も舞台上に実際に登場する。これは普通の演劇でもたまにあるので特に目新しいことではないが、台詞の可視化の一つとしての効果があった。
 『マクベス』はストーリー性の強い舞踊であったが、『夏の夜の夢』はファンタジーな世界を「見るバレエ」として楽しめた。『マクベス』のようにその内容をあまり深く追及しないでも(シェイクスピアの劇の内容をよく知っているということもあるが)、容易にその場その場を楽しめた。
 しかし、前の舞台の『マクベス』に根を詰めて見過ぎたせいもあって、途中何度もうつらうつらしてしまった。眼だけで舞台を観続けるのに疲れた。
 出演は、ティターニアにファースト・ソリストの柴山紗帆、オーベロンにプリンシパルの渡邊峻郁。
 上演時間は、同じく1時間。


『マクベス』/振付:ウィル・タケット、音楽:ジュラルディン・ミュシャ、
美術・衣装:コリン・リッチモンド
『夏の夜の夢』/振付:フレデリック・アシュトン、
音楽:フェリックス・メンデルスゾーン、編曲:ジョン・ランチベリー、
美術・衣装:デヴィッド・ウォーカー
4月29日(土)14時開演、新国立劇場・オペラパレス、
チケット:(C席)4180円、座席:4階 1列17番


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