2022年観劇日記
 
   燐光群公演 『ブレスレス』-ゴミ袋を呼吸する夜の物語-      No. 2022-013

 ゴミ問題+オウム真理教+リア王=20世紀が積み残した課題を甦えらせる

 7月17日(日)の公演を予約していたが、出演者にコロナ感染者が出たということで中止となった。幸いにもすぐに再開され、日程変更して再予約。この時期、夜の公演は気が進まないのだが予定がつかず夜の部で予約。本来の予約に加えて自分のような追加予約があったためか、あるいは金曜日の夜ということもあってか、観劇の日はほぼ満席状態であった。
 初演の1990年からすれば32年前ということになり、一世代前のことである。その32前の作品を、初演、再演(1992年)と同じ劇団で、同じ劇場での再演である。
 今回の出演者、猪熊恒和と川中健次郎は初演と同じ役、初演でムラカミを演じた大西孝洋は再演でコジマを演じ、今回は「パパ」を演じ、初演の座組メンバーが6人参加している。
 自分がこの劇を見たのは2001年の再再演の公演で、それでも21年前のことである。この公演は世田谷のシアター・トラムで上演され、主演の「パパ」(リア)は柄本明であった。その時の観劇日記に、新聞情報として「<当時の世相や事件にシェイクスピアの『リア王』の要素を組み合わせた90年という時代を批評的に描いた作品>として紹介されていた(2001年9月7日朝日新聞夕刊・芸能欄)」と記しており、作品の内容についてもその時の観劇日記に克明に記しているので今更付け加える必要もないので、今回の再演の意味(意義)を考えてみたい。
 先の新聞情報の中にある「90年代という時代を批評的に描いた作品」という言葉を借りれば、21世紀になった今となって見れば、この作品は20世紀が積み残した課題を再びあぶり出す作品として読めるのではないか。
 自殺願望の女性たちの失踪と、ゴミ人間として表象化された坂本弁護士の失踪事件にからめて、教祖的存在である「パパ」に自殺願望の女性たちが「パパ」の娘としてかしづき、その「パパ」は絶えず末娘を求めているリアのアレゴリーとしての交錯を通して、過去の問題から現代の問題提起として捉えられる、いや、過去の出来事、社会問題を再び提示することで、今を考えさせられる問題だと言えるのではないか、と考えた。
 今にして思えば、劇中の「伝言ダイヤル」はSNSなどインターネットの先取りであり、現在である未来を予兆するものといえ、ゴミ収集場での課長とその部下である女子社員との関係は、セクシャル・ハラスメントの問題のみならず、現在の各種のハラスメントとも関連してくる。
 あるいは、もっと単純に、この劇がもともと『東京ゴミ袋』というタイトルで映画の企画として準備されたもので、当初のプロットでは「青春ドラマ的」であったという作者の言葉に従えば、90年代を振り返る自分にとっての青春の回顧としても読め、一方で、今なお解決されていない課題がたくさん残されていることを考えさせられる。
 そんなことを頭に浮かべながら、リアそのものに見える大西孝洋の「パパ」、パパに付き添うタドコロを演じる川中健次郎、ゴミ収集作業員のケンジを演じる猪熊恒和、それに「夫」役の鴨川てんしなど、燐光群の役者の演技を楽しんで観ることができた、その事だけでも大いに満足できた。
 上演時間は、途中休憩なしで2時間25分。

 

作・演出/逆手洋二
7月29日(金)19時開演、下北沢、ザ・スズナリ
チケット:3900円、座席:G列10番


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