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  劇団俳優座LAABO公演 Vol. 36 『女と男とシェイクスピア』   No. 2018-060

 原題は、'Dead White Males'で、オーストラリアの劇作家David Williamson (1942-)の1995年作。
 劇のタイトルの『女と男とシェイクスピア』は、通常であれば「男と女」の順序であると思うが、この邦訳のタイトルが「女と男」の順となっているところに、この劇の核心があるように思えた。
 この劇の主人公の一人、大学講師のスウェインが構造主義の批評家たちの言葉を借りてシェイクスピアを拡張主義者として批判し、シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』と『お気に召すまま』の2作品が女性問題として取り扱われ、フェミニズムが主張されることで「女と男」の問題としてその順序の意味が理解される。
 この授業に参加しているもう一人の主人公アンジェラ一人はスウェインの講義内容を理解し、同級生のメリッサとスティーブにはスウェインの言っていることが全く理解できないでいる(観客である自分にもスウェインの言っている言葉の意味が十分に理解できない)。
 アンジェラはスウェインの助言から、自分の家族のインタビューを始める。
 最初にインタビューするのは、祖父のカル・ジャッドで、祖父は家族から頑固者で亭主関白の暴君、言うなれば『じゃじゃ馬馴らし』のペトルーキオとして思われ、家族から嫌われ者として扱われているが、アンジェラはインタビューを通して祖父の隠れた思いやりを知ることになる。
 次に父親、そして母親のインタビューをするが、そこでも二人の本音の言葉を聴くことになり、アンジェラはスウェインの主義主張に疑問を抱き始め、単位取得のためのレポート発表ではシェイクスピアの「人間性」を主張し、自ら単位を放棄することになる。
 一方、同級生のメリッサは単位取得のためにスウェインの主義主張に同調し、色仕掛けで指導を乞い、無事に単位取得にこぎつけるが、スティーブは最初からあきらめ、本来の希望である自動車整備士の見習いの道を選ぶ。
 シェイクスピアの劇から最後に『リア王』が劇中劇で演じられ、アンジェラの祖父を演じた森一がリア王の最後の死の場面を演じたところで場面転換し、祖父が亡くなった葬式の後の場面となる。
 祖母のグレースをはじめ、子供達(アンジェラにとっては叔母たち)が、暴君のカルが亡くなったことで口々にせいせいしたような本音を口にし、残された財産がほとんどないことに疑問を抱くが、インタビューで真実を明かされたアンジェラが、祖父が友人の家族の為に自分の収入の3分の1を渡していたことを打ち明ける。
 アンジェラの父マーティンは、セラピーを受けていたことから失職し無職で、母親のサラはキャリアウーマンとして、今では会社の重役にまで出世していて、アンジェラは父と母が本当は離婚を望んでいるがアンジェラの為に我慢していると思っていて、二人にそのことを告げると、実は二人は心から愛し合っていることを知らされる。
 劇の進行中にシェイクスピアが随所にアンジェラの前に現れてきて、スウェインの主張で拡張主義者として否定されるが、アンジェラがシェイクスピアの作品にある「人間性」を知ることで、シェイクスピアは肯定された存在に回復される。
 この劇の要は、シェイクスピアは主義主張という枠組みの中で矮小化して見るものではなく、もっと広い意味での人間性ということで感じ取るべきものであるということを再認識させてくれたことで意義深い。
 劇の終わりの方で、原題の'Dead White Males'に関連した台詞がスウェインによって語られるが、その内容がよく掴めなかったので、原題の意味するところが分からないままである。
 出演は、スウェインに河内浩、アンジェラに椎名慧都、劇中のシェイクスピアとアンジェラの父親マーティンを八柳豪が二役、メリッサに相波詩織、スティーブに山田定世、祖父カル・ジャッドに降板した小笠原良知に代わって森一が演じ、祖母グレースを90歳になる中村たつ、アンジェラの母に佐藤あかり、他、総勢12名。
 上演時間、途中15分間の休憩を挟んで、2時間45分。

 

作/デヴィッド・ウィリアムソン、訳/佐和田敬司、演出/森 一
12月15日(土)14時開演、俳優座劇場5階稽古場
チケット:3800円、座席:01列08番(客席はコの字型、舞台は平土間)

 

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