― 十字形を組み込んだ舞台装置が表象する「混沌のシンボル」がすべてを語る ―
リア王のメイク、衣装、演技が特に印象的で、誇張的に言えば、リアのメイクはローレンス・オリヴィエを感じさせる雰囲気を持っていて、その存在感ある演技に感動した。また、90分というコンパクトに圧縮された上演時間で、一部オリジナルとは異なる展開があり、非常に興味深い脚色と演出の舞台であった。
十字形が組み込まれたひし形の枠の中に4つのピットとしての空洞がある舞台装置は、当日渡されたプログラムにはその十字形を「混沌のシンボル」と記していた。
会場内は入場した時からすでに薄暗いというより暗い中、開演後すぐに暗転して舞台が明るく照らされると、中央部のひし形の先端に道化が胡坐をかいて座っており、
He that has and a little tiny wit,
..... With heigh-ho, the wind and the rain,
Must make content with his fortunes fit,
.....Though the rain it raineth every day
と歌った後、舞台は再び暗転し(この唄は、嵐の場面で再び歌われ、それを最後に道化は消える)、舞台が再び明るくなると、ひし形の舞台装置の前面に4人の親子が登場し、日本語で、王国が3分割され、親子がそれぞれの領主のもとに別々に別れていかなければならないことを嘆く。
この親子は、この後も場面の要所で舞台進行の内容を日本語で状況説明するプロローグ役を担って登場するが、最初の道化の登場とあわせて、この冒頭部の展開と構成に興味がわいて舞台に引き込まれていった。
各場面における場人物の台詞は、大胆に、大幅にカットされ、しかもオリジナルとは異なる英語で現代英語に直された聞き取りやすいものとなっていた。
リアが王国を3分割して3人の姉妹に国譲りをする場面でもゴネリルやリーガンの台詞は大幅にカットされるが、リアは一枚の地図を手でちぎって、それぞれ、ゴネリル、リーガンの姉妹に渡し、コーデリアに渡すはずの領土は、彼女の'Nothing'の答えに激怒したリアは、地図を2つに破って二人の姉妹に渡す、この国譲りの演出にも新鮮さを感じた。
グロスター伯がコーンウォール公とリーガンの2人から目を抉り取られた後のドーヴァーへの道行き場面も圧縮され、エドガーはその場で父に自分の身を明かし、気の狂ったリアがそこに登場し、ゴネリルの執事オズワルドがリアを殺そうとして逆にエドガー殺され、グロスターも舞台上のその場で息絶える。
リーガンを毒殺するゴネリルは自害ではなく、瀕死のリーガンから剣で刺殺され、二人は舞台上で死ぬ。
'Howl, howl, howl, howl'と吠えるようにして嘆きながらリアがコーデリアを抱いて登場する場面、コーデリアが決して生き返ることはないという悲痛の叫び'Never, never, never, never'の場面は最後の見せ場でもあるが、リアを演じる浦田和喜君の演技と台詞は技巧的には見せるものがあったが、圧縮された演出の中では残念ながら感動的な気持になるまでに至らなかったが、それは求め過ぎかも知れない。むしろ、彼の演技や台詞をほめてやった方がよいだろう。
ナレーター役の離散した親子4人も、舞台の登場人物と同じく、母、息子、娘の3人は死んでしまい、残った父親が一人嘆く最後となる。
この劇の最後の台詞は、オールバニー公が語る版本とエドガーが語る版本があるが、この演出ではエドガーが最期を締める。
台詞や場面のカットとあわせて、原作とは異なる演出を交えていることで、オリジナルとの違いを発見して楽しむという知的な面白さが加わって、場面の進展に飽きることがなかった。
主だった出演は、リア王の浦田和喜、ゴネリルに池田香織、リーガンに堀部茅音、コーデリアに渡辺藍史、オールバニー公に古場春菜、コーンウォール公に和智太誠、ケント伯に雨田一輝、グロスター伯に大豆生田豊、エドガーに浦田翔平、エドモンドに胡佐豊、道化に藍澤颯斗、オズワルトに池野航平など。
演技、内容ともに感銘深い舞台であった。
上演時間は、90分。
【追 記】
国が3分割されることで親子4人がバラバラになるナレーター役は、国が分断されることの不幸を表象していることが伝わり、この劇の現代的意味を強く感じさせた点でも、この構成は素晴らしいものであった。
脚色/ギャヴィン・バントック(Gavin Bantock)、演出/マーウィン・トリキアン(Merwyn Torikian)
11月10日(土)17時開演、麗澤大学・Small Theater
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