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  阿羅華瑠人・朗読劇 『リヤの阿呆と3人の娘たち』          No. 2018-043

初演の松岡訳から逍遥訳での再演、悲劇を喜劇に転じる芦谷透の演出の試み

 第一部、金澤まこと作・演出による琵琶楽「HAGOROMO」と、高橋りりすの一人芝居『私は生き残った』。
 第二部、北村青子、白井真木、倉橋秀美、薩摩琵琶演奏の尼理愛子による朗読劇『リヤの阿呆と3人の娘』。
 第一部の『私は生き残った』は、今年の2月、両国亭の「英語語りの会」で英語の演技で一度観ており、その時に緊張して聴いた記憶を思い出しながら再度楽しませてもらった。
 第二部の『リヤの阿呆と3人の娘』は、昨年、松岡和子訳で同じメンバーで上演したものを、今回は坪内逍遥訳での再演で、翻訳の違いと演出者の違いでどのように変容するかが楽しみであった。
 今回の演出者芦屋透は、演出にあたって悲劇を、同じ愛を追い、戦い合う滑稽な二人の姉と、真面目にリヤに向き合う妹の喜劇にしようと決めていたという。
 グロスター伯爵の庶子エドマンドの愛をめぐって姉のゴネリルと次女のリーガンが激しくバトルを演じるのを喜劇的に見立てての演出である。
 ゴネリルとリーガンのバトルは、激しく憎々しいほど、演出者の意図を示すかのように、ある意味で滑稽で喜劇的に感じさせるものがあり、演出者の意図をはからずも具現化していて、北村青子と倉橋秀美の演技に朗読劇を超えたものを感じた。
 衣装とメイクが前回と比較して際立っていたように思う(実は、前回の衣装については覚えていない)。
 薩摩琵琶演奏の尼理愛子は、緑色がかった青空色の着物姿、ゴネリル役の北村青子は派手な金色のショールを羽織ってきらびやかな装飾品を身に付け、リーガン演じる倉橋秀美は紫を基調とした衣装で、少し怖ろし気な顔のメイクが一層憎々しさを増幅させていたのが印象的だった。
 一方、コーディリアを演じる白井真木は清純さを表象して純白の衣装だが、途中道化役となって衣装を着替えるそのコントラストが見ものとなっていた。
 登場しないリヤの台詞の箇所には薩摩琵琶の演奏が入り、リヤの存在をリアルに浮かび上がらせ、リヤ絶命の場面では演奏者の尼理愛子が首をうなだれ、その死を体現化していた。
 終わりは、前回の演出と基本的なところでは変わらず、台本のコーディリアの最後の台詞を3人の姉妹でコーラスのようにして演じるが、リーガンが蝋燭を持って登場し、台詞を語り終えたところで蝋燭の火を吹き消し、暗転となって幕。
 終わりについては、3人の姉妹は原作では全員死んでしまうので作者不詳の『リア王年代記』やテイト版のハッピーエンドの『リア王』を一部採用してコーディリアにエドガーの台詞(クオート版ではオルバニー公爵)を語らせるようにしたことは前回の観劇日記にも記しているが、ここにその台詞を引用しておく。
 「ああ、お父様が殺されてしまった。私を庇おうとして。ああ、ああ、お父様が、永遠に逝ってしまった。お父様の忠臣ケントが私を救い出してくれた。ケントの話では、エドマンドの愛を争って、お姉様のゴナリルが下のお姉様のリーガンを毒殺し、ご自分も自害されたという。そのエドマンドも、兄のエドガーとの決闘に敗れて亡くなったとのこと。お父様のご遺骸を運んでください。喪に服した後、私はフランス王のもとに還らねばなりません。
 オルバニー公爵、あなたはこの国を治め、国家の深傷(ふかで)を癒してください。この悲しい時代の重荷は、私たちが背負っていかねばなりません。最も年老いた方が最も苦しみに耐えられた。若い私たちにはこれほど多くを見ることもなく、これほど長く生きられもしない。」
 千秋楽とあってか、この日の会場は満席で、場内は熱気に包まれていた。

 

企画/阿羅華瑠人実行委員会、訳/坪内逍遥、台本構成/高木 登、演出/芦屋 透
8月25日(土) 14時30分開演、阿佐ヶ谷ワークショップ、料金:2500円

 

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