高木登 観劇日記2015年 トップページへ
 
   彩の国シェイクスピアシリーズ番外編、藤原竜也の『ハムレット』  No. 2015-06
 

これまでにもニナガワ『ハムレット』のいくつかのバージョンを観てきたが、ニナガワ・シェイクスピアにはいつも何か仕掛けが仕組まれているという期待感がついてまわる。
今回の舞台装置は19世紀の日本の貧しい庶民の家屋をシェイクスピア上演の稽古場に仕立てたもので、聞こえてくる音楽(?)も仏教の勤行の声が主調となって全体的に和様風な印象がある。
舞台背景はこのような和様の家屋であるが、各場面の情景は、照明のハレーションでその背景を霧に閉ざされたようにぼかすことで奥行きの深さを表現し、それぞれの場面の情景の雰囲気を造り上げているという点で照明の重要性が一段と強いものとなっている。
このような舞台装置のせいか、今回の舞台はこれまでのニナガワ『ハムレット』と比較すると動きが全体的にゆっくりしたもので、階段状のセットを使った時のような激しい動きがなかったのも特徴の一つであった。
ニナガワの仕掛けとしては、舞台装置と登場人物の二つにあったと思う。
旅役者による芝居の場面で、緞帳が上げられると見事な雛壇セットが現われるのに驚かされる。
劇中劇の王と王妃が最上段の内裏雛、そして三人官女と五人囃子と隋身とが、それぞれの段に役者たちが扮して並んで座っている。
随身の左大臣が王の甥のルーシエーナス役となっている。
ルーシエーナスが王を毒殺する場面を見ているクローディアスを演じる平幹二朗の目の表情に凄さがあった。
今一つの舞台上の仕掛けとして、舞台上手に据えられた手押しポンプのついた井戸がある。
クローディアスの祈りの場面にこの井戸が使われる。
自分の子供時分は水道でなく井戸(手押しポンプなどしゃれたものはなく、つるべで水を汲み上げるものであったが)で育ったのでよく知っているが、井戸は生活必需品であるばかりでなく水神様としても祀(まつ)られていた。
この場面でもそれを表象して、幣が井戸の周りを帯にして巻かれて祀られていた。
クローディアスは最初、まずこの井戸水で手を洗って清め、祈りに入るときにはなんと頭からこの井戸水をかぶって体を清める。
これも驚きの一つであったが、この劇全体の主調が和様になっているだけに、祈りと神聖な井戸水との関係を非常にうまく、効果的に使っていると感心した。
登場人物の仕掛け(と言っていいのかどうか分からないが)としては、フォーティンブラスの登場の仕方とその人物造形があった。
第4幕第4場で、フォーティンブラスはその軍隊とともに登場するが、彼は最初一人で舞台奥から、白いシャツの胸をはだけて青いズボンをはいて、とぼとぼとゆっくり歩いて登場してくる。
彼はしゃがみ込んで何やら地面に書きものをしながら、部下の方も見ずに指示を出す。
登場してきた時の様子やこの有様を見て、彼がフォーティンブラスであることに気付くのに時間差が生じる。
最後の場面では、上半身裸のフォーティンブラスが、終始、抑制された、聞き取れないほどの細い声で語る。
このフォーティンブラスの意外な登場の仕方と台詞表現も大きな驚きの一つであったが、その意味、意図するところはいま一つ掴めないでいる。
演出の遊びとしての面白さに、ローゼンクランツとギルデンスターンの二人を、まるで一卵性双生児のように、どちらがどちらか分からないようにして、王と王妃が名を呼び間違えるたびに二人が位置を入れ替えるのがあった。
演技と台詞力に終始見入ったのは、クローディアスを演じた平幹二朗であった。
カーテンコールの主役は藤原竜也と満島ひかりであったが、この舞台は彼のものと言っていいほどであった。
寝室の場面でのガートルード演じる鳳蘭の所作、声の表現力にも、見とれ、聴き惚れた。
藤原竜也のハムレットは、彼がこのハムレットを演じるのは12年ぶり2度目のことであるというが、前作は観ていないので(多分チケットが入手できなかったからだと思う)比較はできないが、強く感銘を受けるものではなかった。

出演は、他にポローニアスをたかお鷹、ホレイシオを横田栄司、オフィーリアを満島ひかり、ローゼンクランツを間宮啓行、フォーティンブラスを内田健司、など。
美術/朝倉摂と中越司、照明/服部基、衣裳/前田文子。
上演時間は、前半1時間40分、休憩15分、後半1時間30分。

(翻訳/河合祥一郎、演出/蜷川幸雄、1月24日(土)13時開演、
彩の国さいたま芸術劇場・大ホールにて観劇。 チケット:10800円、S席、1階J列28番)

 

>> 目次へ