高木登 観劇日記2015年 トップページへ
 
  YSG第12回公演 『リア王―グロスター家の事情』      No. 2015-22
 

今回のYSG公演では、まずタイトルに惹かれた。
『リア王』は、本筋としてリアと3人の娘の物語があり、副筋としてリアの家臣であるグロスターと2人の息子たちの物語が並行、交錯して進む。
今回の上演で、グロスター家に焦点を絞った事情については、小池智也が司会進行するアフタートークで詳しく語られるので、自分としては珍しく(というか初めて)このアフタートークのメモを取ったので、そのメモを手掛かりにまとめてみることにする。
まず、この作品を選んだ理由について演出を担当した佐藤正弥の話から。
YSGは公演後2か月で解散し、同じ年の秋ごろに再び翌年の公演に向けて再発足する。
そのときにメンバーに上演したい演目を一応尋ねるが、実はほとんど独断で決めており、今回も別の作品を考えていたという。
しかしながら、長年の参加メンバーの一人小嶋しのぶから、座長の希望である『リア王』が提案された。
『リア王』については実は今回が初めてではなく、YSG第2回のオムニバス公演の一環として「リアと3人娘」という形で上演されている。
そのときにリアを演じた座長の瀬沼達也は、8年ほど前に脳梗塞を患い、この長いリアの台詞を語るにはかなりの負担がかかるということもあってなるべく出番を減らすことにし、一方で『リア王』を多角的に見るということでなるべく場面をカットせずに上演することを考えた結果、グロスター家に焦点を当てることになった。
そして、この2つの家族を対照的に描き出す工夫の一つとして、グロスター家の側は白い衣装、リアの側は黒い衣装に統一して目立つように演出している。
嵐の場面では、音響効果を使った外的表現もあるが、今回はリアの心の中の嵐、心象風景として表現し、そのために観客席の後ろ側からゴネリルやリーガンに好き勝手にしゃべらせ、言葉の嵐を呼び起こしている。
そのリア王を演じた瀬沼達也の弁―10年後にもやらせてもらいたい。今回は職務の傍ら台詞を覚えこむのに頭の中が真っ白になった。神には奥さんがいない、リアにもいないことで、今回発見したことで、リアに母性を働かせるべきではないかと気づいたが、それを表現するには気づくのが遅すぎた。こんなにやりがいのある役はない。
彼の演じるリアを観て感じたことは、脳梗塞で倒れられた後しばらくは大事を取って台詞の発声も控えめな感じであったが、今回のリアの台詞力は全力疾走を感じさせる力強さを感じさせた。
瀬沼氏と同じころに脳梗塞で倒れた文学座の江守徹が今年の1月にリア王を演じたが、歳も江守徹の方が瀬沼氏より一回りも上で、かつ英語と日本語の違いがあるとはいえ、(江守徹のリアにも一味違った味わいがあり、ここでは両者の演技全体について優劣を意味するものではないが)台詞力と表現力では瀬沼氏が圧倒していたように感じられた。江守徹のリアとの比較の上でも、江守の歳になる10年後の瀬沼達也のリアも観てみたいものだ。
続いて、それぞれの役を演じた役者たちのコメントから。
ゴネリルを演じた関谷啓子―ごねってばっかしで、文句や不平を言う役で、家庭でも声の調子が強くなり夫に対しても強い口調となってしまった。
リーガンを演じた小嶋しのぶ―自分とは異なった性格で、演じていて楽しかった(彼女は、10年前と容姿・容貌とも少しも変わっていないのに驚き)。
コーデリアを演じた森山希望―学生の時には男役ばかりだったのに、座長の相手役で役へのプレッシャーもあったが、やりがいがあった。
グロスターを演じた佐々木隆行―リハーサルをやるまでは作品の全体がつかめなかったが、リハーサルで初めて全部がつかめた。(役上の)二人の息子は面倒を見てやりたくなるいい息子で、子供への無償の愛を土台にして演じた。
エドマンドを演じた細貝康太―演出の佐藤正弥に言わせると、「表向き善人を演じて、裏で悪さが出たらいいと思ったが、彼本来の人柄の良さが出過ぎた」との(人物)評だが、本人は悪役を演じられたことがよかったとコメント。
エドガーを演じた斉藤圭太郎―放蕩息子や乞食役など変化のある役どころで(演ずるのに)混乱した面もないではないが、目まぐるしさの中にも楽しさがあった。
コーンウォールを演じた遠藤敬介―悪役を演じるのが好き。グロスターの目玉をくりぬく場面をいかにインパクトを出せるか考えて演じた。
オズワルドとオルバニー公を演じた三井淳平―両極端の役で幅広い役…(メモが途中で切れていてコメントの控えがないのは筆者のミス)。
二人一組で道化を演じた飯田綾乃と柳かおる―それぞれの個性で好きにやらせてもらった。台詞が途切れてもお互いにカバーしあえることに安心感があった。
この道化には演出の細かい工夫が凝らされていて、リアが‘Who is it that can tell me who I am?’と問いかけたのに対し、道化二人は背中をくるりと向けて、‘Lear’s shadow’と答えるが、その二人の背中には鏡が付けられていて、リアはその鏡を覗くことになる。
演出の工夫として、この劇の始まる前に座長瀬沼達也のプレ・レクチャーの解説の中で触れられる新約聖書の『放蕩息子』のたとえ話に関連して、伯爵領の相続が決まっているエドガーを放蕩息子に仕立て、彼が最初に登場してくる場面では、アロハシャツ風の派手な服装をして娼婦と戯れるようにして出て来させる(この部分は、最前列中央の席に座っている自分には前を観ていて見えなかった)。
その娼婦役の道化を演じる森川光、キャストには名前がなくアシスタントとしてあるのみであるが、この一瞬の役のために人一倍に時間をかけ、母親にマニュキュアの仕方を教わり、女装用の衣装も自分で買い揃え、当日女装のままの格好で電車にも乗って来て、同乗客に一瞬身を引かれたという念の入れようであった。
YSGの舞台は、このような素敵な仲間たちによって毎年素晴らしい舞台が作られている。
全員がそろっての稽古は4、5回もないという厳しい条件の中で、すばらしい英語の発声と演技を観させていただいたことに、アフタートークではappreciator(感謝する人)として、観客の一人の挨拶として感謝の弁を述べた。
今回の会場は、新たにできた関東学院大学の追浜チャペルで、平土間の舞台を客席が三方から囲む臨場感のあるものであった。
演出・構成に当たってはケントの出番が全面的にカットされ、小池智也のナレーション以外はすべて英語による上演で、本編の上演時間は休憩なしで約2時間であった。

 

(佐藤正弥演出、6月20日(土)昼、追浜チャペルにて観劇)

 

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