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  世田谷パブリックシアター公演 『トロイラスとクレシダ』       No. 2015-027

旧世代の終演―トロイの滅亡

 世田谷パブリック+文学座+兵庫県立芸術文化センター共同による公演で、出演者の大半が文学座所属。 
『トロイラスとクレシダ』は上演される機会も少ないが、何よりもその特徴とされているのがシェイクスピアの「問題劇」の一つとされていることである。 
 これまでに観劇してきたこの作品もそのような目で観照してきたが、今回感じたのは、現代にあって、あるいはこの演出におけるこの作品は、「問題劇」でも何でもないという感想をもった。 
 トロイとは旧世代であり、ギリシアは新世代で、この劇はヘレナという女性を発端としてそのことを仮託した、新旧世代の交代を表象化するドラマとみなすことができる。 
 それを象徴する出来事の一つが、トロイ側の勇将ヘクターがギリシア軍のアキレスに殺される場である。 
 ヘクターは敵が弱っていればそれ以上追及せず見逃すが、アキレスは敵を倒すのに手段を選ばない。 
 一日の戦いを終えたヘクターは武具を脱ぎ、アキレスが無防備の自分に対し戦いを仕掛けることなど旧時代のヘクターには考えもしないことであったが、アキレスはそれを逆に好機ととらえ無残に殺しただけでなく、死者への敬意も示すことなく、見せしめとして馬に引きずらせていく。 
 アテネから連れ去られたヘレナも新世代を代表する人物であり、ヘレナを演じる松岡依都美が巧みにそのことを体現していた。 トロイの王プライアムは言うまでもなく旧世代を代表するもので、演じる江守徹の存在感が自ずとそれを体現していた。 
 ヒーローとヒロインであるトロイラスとクレシダの関係も同じようなことが言える。 
 クレシダはトロイからギリシアに引き渡されたその時から、旧世代的な思考から解放されている。 
 旧世代的な恋愛観のトロイラスに対し、ギリシア軍の武将ダイアミディーズがクレシダに仕掛ける愛は、駆け引きに長け、恋愛をゲームのように見なしている。 
 この劇が問題劇とされる所以は喜劇でも悲劇でもないところにあるが、それはシェイクスピア(時代)の約束事であるヒーロー、ヒロインが恋愛で一時的に結ばれることはあっても結局は結婚で結ばれることがない点で喜劇でなく、またヒーローとヒロインの死がないことで悲劇でもない。 
 現代の劇では喜劇、悲劇はそのような単純な範疇で括ることができない、というよりそのように単純ではない。 
 トロイラスとクレシダの関係のような恋愛の結末は、戦争ということは別にしても、現代の世の中では特別なこととは思えない。 
 今回、そのような印象を感じさせた背景に、登場人物の衣装、特に軍服が現代的なものであり、またアキリーズやパトロクラスなどは編み編みの髪型でまったく現代風であることから生じている。 
 そういった意味合いにおいて、この劇は、愛や、名誉や、人の信義といった旧世代の秩序が崩壊していく過程を映し出したもので、トロイラスとクレシダ、ヘクターとアキリーズの関係はそれぞれを代表するシンボルといえ、シェイクスピアにおける最もモダンな劇であるといえる。
 さて、舞台そのものについて。 
 本舞台は、下手側に少し傾いた円盤状の形となっており、後方部は階段状の構造となっていて、階段下の上手奥は洞窟のようなイメージの出入り口となっている。 
 天井から大きな紅白の布が、三角形の形状に互いに交差するようにして吊り下げられたり、吊り上げられたり、また位置が入れ替えられたりすることで場面転換を表している。 
 序詞役の小林勝也のプロローグの台詞が、観客との間に空気が通っていない感じがし、虚ろで、胸に響いてこなかったのは自分だけの印象であろうか。 
 小林勝也という俳優は非常にうまいと思っているし、好きな俳優の一人でもあるが、今回この場面に限って言えば物足りなさを感じた。 それに比べてトロイラスとクレシダの仲を取り持つパンダラス役の渡辺徹は、終始目立つ存在で舞台の中核を占めていた感があった。 
 上演の機会が少ないだけに、つい2012年に彩の国さいたま芸術劇場での蜷川幸雄演出の『トロイラスとクレシダ』と比較してみたくなる気持ちがわいてくる。 
 たとえば、横田栄司と高橋克明が演じるアキリーズとパトロクラスの同性愛的関係については、蜷川幸雄演出と比べると鵜山演出はおとなしく、蜷川演出の星智也が全裸のアキリーズであったのに対し、横田栄司のアキリーズは三角巾(俗称キンツリ)の前隠しをしていた。 
 それに蜷川演出では二人が性的行為をしていることを伺わせる場面があるが、鵜山仁演出ではそこまではない。 
 両演出の比較をするのは本意ではないのでこれくらいにしておくが、どちらが良いとか優れているとかいうことではなく、そこから生じてくる印象に興味がある。 
 今回の舞台では、出演者がトロイラスの浦井健治、クレシダのソンニ、それにヘクターの吉田栄作、ダイアミディーズの岡本健一などを除けば、あとは全員文学座の俳優で、それもベテラン、中堅のオンパレードといった感じで、特に劇団の大重鎮ともいえる江守徹の出演もあって、豪華メンバーを一堂に観ることができるという楽しみもあった。
 上演時間、途中15分間の休憩を挟んで2時間50分。

 

翻訳/小田島雄志、演出/鵜山仁
7月20日(月)13時30分開演、世田谷パブリックシアター 
チケット:8000円、座席:K列27番、プログラム:1200円

 

 【追 記】 
 HPにアプロードした後に、印象的な一番大事なことを思い出した。 
 一番大事なことを忘れたということはそうではないということかも知れないが、追記しておくだけの必要はある。 
 それは、舞台のエンディングで、段ボール紙で作られた大きな人型の人形が天井からドカドカと落下してきたことで驚かされたことである。 一瞬、蜷川演出の再来かと思わせるものであったが、蜷川のものはもっと質量感があってリアルなものであるという点で、鵜山仁との演出の違いを感じた。 
 そしてパンダロスがこの人型の人形を抱えて、 
 「陽気な蜜蜂歌うのは 
 蜜と針とがあるあいだ、 
 お尻の針を失えば 
 歌まで張りを失うよ」 
 と声を細らせて歌うところで幕となる。 
 人型の人形を旧世代の人物の表象化したものとしてとらえれば、旧世代の終焉―トロイの滅亡を暗示する。 
 追記のついで蜷川演出との違いをもう一つ付け加えると、蜷川演出では場面全体が明るく、特に開幕の場面では一面のひまわりで舞台を覆いつくされていたが、鵜山演出では全体が暗く、垂れ下がる紅白の布もくすんだ色で白も、白色というより灰色であったことを付け加えておく。

 

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