共通項は家庭崩壊、様式美と劇=詩を具現化
世の中にはまだまだ自分の知らない劇団が数多くある、というより知っている数の方が少ないと言った方が正解だろう。もっとも、自分の場合はシェイクスピアを上演する劇団や集団については可能な限りすべて観るようにしているので、知らない劇団などにはかえって新鮮な興味を感じる。
今回この『リア王』の公演がなければ知らないままで過ぎたであろう "楽園王"は、1991年に長堀博士が創立し、今年で24周年という経歴だというが、これまで自分の情報の網にかかってきていなかったのは、多分シェイクスピア劇を上演した経緯がほとんどないからだろう(間違っているかもしれないが)。
インターネットで調べれば昨今必要な情報はほとんど入手できるが、余分な先入観を持たないようにするため、"楽園王"に関して事前の知識を入れずに観劇に赴いた。
劇団も初めてなら劇場も初めての場所で、王子駅近くの"pit北/区域"、その名の通り、ビルの地下の穴倉のような小さな空間で、客席もせいぜい30人程度であった。
上演の『リア王』は1時間足らずということで、今回の公演のテーマに関連して三島由紀夫作の『火宅』が合わせて上演されたが、"家庭崩壊"と"言葉"の問題がテーマとして関連している。
事前の情報なしで観るので、その驚きとインパクトは強いものがあった。 最初に上演された三島由紀夫の『火宅』は、戦後の財産税のため没落した元士族、大里家の家族崩壊を描いている35分間の短い劇で、登場人物も夫婦と娘のわずか3名である。
台詞の切れ目が普通とは異なって次のセンテンスに移る最初の語句の途中までが一気に語られ、そこで一息止まって次の言葉が続くという独特な台詞回しで、咽喉元が引っかかったような状態になって台詞を聞こうとする集中力がそこで強化されるという効果を感じた。
語られる台詞は声高な場面であっても感情的な抑揚がなく、能面のような表情をした語り口である。
夫婦愛の冷めた夫と妻、没落して金銭的にも困窮しているにもかかわらず、女学校卒という女中を雇っている。
娘のほかに息子がいて、その息子が女中と関係を持ち、娘は間借りしている青年と恋仲であるが、妻はその青年と不倫の関係を結んでいることが妻の口から語られ、娘が母親と青年の関係に気付いていて娘が出て行くのは青年と心中するためだと夫に告げるが、夫はほとんど無感情にそれを聞いているだけである。
その家庭崩壊を象徴するかのように、家が燃えていると夫が気付き妻に告げるが、妻は無表情なままである。
言葉だけが過剰に語られるが、その言葉は互いに宙に浮いたままである。
その台詞回しの空間に漂う緊張感を感じた。
5分間の休憩の後、シェイクスピアの『リア王』の上演となる。
一人の女が、コンテンポラリーダンスのような所作で、髪をふり乱した動きを演じ、そこで一旦暗転。
女がうつむいたまま座っているところに彼女の夫が現れ彼女に声をかけるが、女はそれに答えず夫は家の鍵を置いて出て行く。
神社の巫女の衣装をしたリアの3人の娘が登場し、女は3人の娘の母親であるリア王と変じる。
この『リア王』でも家庭崩壊が描かれており、その発端はコーデリアの言葉の寡少からくるものであるが、 母親への愛情表現以外の台詞では、このコーデリアでさえ言葉過剰とも感じられるほど言葉が激しく渦巻く。
国譲りに伴う愛情試しの場面、嵐の場面、コーデリアの死を嘆く場面など、ハイライトの場面を要所要所に織り込んだ『リア王』劇が繰り広げられる。
そこに登場するのは、女リア王と3人の娘、ケント伯と狐の仮面を付けた男(女の夫役が演じる)の6人。
女は妄想の中でリアを演じているのか、転換した場面では、夜遅く帰宅した夫が女に声をかけるが女は何も答えず、夫はこらえかねて離婚を口にする。
女がふさぎ込んでいるのは、娘が何も語らず、何も書き残さず自殺したことが原因で、夫に対して娘がなくなった時ぐらいは自分と同じ気持ちになってほしいと頼むが、不倫中の夫とは感情と言葉がすれ違うだけである。
長堀博士の演劇方法は、"様式美"と"劇曲=詩"という考え方に集約されているようであるが、この舞台もそれに違わぬ緊張度の高いものであった。 『リア王』をコンパクトな家庭劇にまとめ、三島由紀夫の『火宅』と合わせ観るという、稀有で貴重な体験をした。
演出/長堀博士、6月27日(土)14時開演、王子・"pit北/区域"、チケット:2000円
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