舞台中央にプロスペローがひとり、何か考えごとをしながら動いている。
そこへ車椅子に乗った人物が登場する。
はじめ、それはプロスペローの娘、ミランダかと思ったが、妖精エアリエルであることが後で分かる。エアリエルの両足には金属製のギブスが嵌められているので、引き裂かれた樹の幹の間に魔女シコラクスによって閉じ込められた後遺症を思わせる。だがそれは、実はプロスペローによって架せられた束縛のための箍ではないかと、最後の場面になって感じさせた。
すべてが終わった後、エアリエルがプロスペローに解放されて自由の身になった時、彼は車椅子を捨てて歩いて立ち去っていくことから、車椅子は彼を束縛していたものであったと思われたのだった。
が、話を最初に戻そう。
プロスペローがたたずむ舞台中央には、彼一人が入れるほどの水色の小さな円がスポットを浴びている。
エアリエルがプロスペローに魔法のマントと杖を渡すと、そのマントを着てプロスペローはその円に杖で術を施す。円は渦巻きの逆の動きをして遠心的に拡大され、拡散していくと嵐の海となる。
そこに現われるのは段ボール箱が満載された嵐にもまれる船の甲板上、船乗りたちが嵐に抗っている場となる。 舞台いっぱいに広がる段ボールの山は、場面の変化の構成と場を表象する道具として使用される。
場面転換には、ヘルメットを被った作業員たちが、役者のいる場を割って入って段ボールを移動させ、黒子であるとともに登場人物の一角のように見える。
段ボール箱を使った舞台装置にいかなる表象を読み取るかは人によって異なる効果を持つように思われる。
難破した船から身体一つで助かったナポリ王一行の登場の際には、パレットの上に積まれた段ボール箱の一群が碁盤の目状に整然と並んだ時には、製造工場のプレス機か何かの機械が並べられている状態を感じた。
舞台構成についてはこのぐらいにして、劇そのものは登場人物の造形、台詞はつまらなく、退屈でしかなかった。 新国立劇場の中劇場という構造上の問題からマイクを必要とするのは仕方がないが、マイクを通して聞こえてくる台詞が心にまったく届かず、パターン化して異次元的なものにしか聞こえず、感動も何も感じなかった。
これは劇場の選定ミスとしか言いようがなく、むしろ小劇場で上演されるべきものであったと思う。
ステファーノ(櫻井章喜)とトリンキュロー(野間口徹)の掛け合いの場面では、ステファーノが「木にかかってりゃ気がかりで、木からはずせば気恥ずかしい」と言ったのを受け、トリンキュローが「これだけあるんだから盗んでも気(木)はとがめません」という駄洒落を言った後に観客に向かってしばらく沈黙して笑いを確認するのがしらじらしさしか感じなかったし、誰も笑う者はいなかった。
プロスペローのエンディングのエピローグの台詞回しも自分の期待から外れていて、残念ながら、全体的に不満足な気持しか残らなかった。
プロスペローは古谷一行が演じ、他にはミランダに高野志穂、エアリエルに碓井将大、ゴンザーローに山野史人。 異彩を放っていたのはキャリバンを演じた河内大和であった。
上演時間、2時間20分(途中休憩20分)
訳/松岡和子、演出/白井晃、美術/小竹信節
5月17日(土)13時開演、新国立劇場・中劇場
チケット:6982円(高齢者割引)、座席:1階17列43番、プログラム:800円
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