高木登 観劇日記2013年 トップページへ
 
  カクシンハン第3回公演 『リア』      No. 2013-023
 

旗揚げ公演から観る劇団はカクシンハンが初めてで、第1回と第2回の公演を観て大いに関心を抱き、この劇団が継続していけるのかどうか、そしてその方向性に関心があった。

それで、第2回目の『海辺のロミオとジュリエット』を観た時に書いたことを再録すると、

<第1回、第2回公演を通してみて感じたことは、背景として社会的現象の事件を挿入しているが、社会批判や、何かを訴えると言うよりは、それらが現象でしかなく、その根底にあるのは、現代的風潮になじめない若者の失意から生じる自己喪失、アイデンティ喪失による分裂症の病である。>

とあって、日本の中で起こった社会的事件をシェイクスピアの作品に絡ませ、そこに社会に潜む若者たちの病巣のようなものを感じさせるものがあった。

今回はがらりと趣が変わり、これまでのような創作劇ではなく、シェイクスピアをストレートに勝負する。

しかも、“りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピア・シリーズ”で『ハムレット』や『マクベス』のタイトル・ロールを演じた河内大和を迎えてのリア王で期待していた。

だがその期待感は、登場人物の造形に問題を感じて、残念ながら無残にも砕かれた。

登場人物の相互関係に立体感がなく、その結果、個々の人物が希薄で存在感が乏しいものになっている。

コーデリアを演じる真以美はエドマンドとの二役を演じるが、この二役の人物造形そのものが奇異をてらい過ぎていたように思う。

リアが国を三人の娘たちに遺産として譲る場面でのコーデリアは、フードをかぶって、ウサギのぬいぐるみを手にしていて、彼女の発言内容との乖離を感じる。エドマンド役では、足を引きずってリチャード三世のような容姿を感じさせ、ときに奇声を発し、ゴネリルやリーガンとの恋愛関係を感じさせるものがなかった。

それはエドマンドに対するゴネリル、リーガンにも言える。

二人がエドマンドを愛しているのは台詞の言葉の上だけで、観ていてそれを感じるところがない。

また、リアに追放されたケントの変装はオカマのようで違和感があった。

リアと三人の娘たちの関係、グロスターと二人の息子エドガーとエドマンドとの関係も含め、登場人物の相互関係に有機的な立体感がなく、バラバラな印象であった。

召使いに傷を負わされたコーンウォールをリーガンが刺し殺すのも、相互的な関連性を感じない説得力に欠ける演出にしか思えなかった。

一番気になったのは、誰の翻訳を使用したかチラシに何もなく、作/シェイクスピア、演出/木村龍之介とだけしかないことだった。

この劇の最後の場面、リアの死は坐臥した状態で、手は施無畏印と与願印をしており仏像の釈迦像を想起させ、通常ではエドガーの台詞が、ここでは死んだリアが立ち上がって、ボードにチョークで板書される。その言葉は、

<この悲しい時代の重荷は、我々が背負っていかねばならない。言うべきことではなく、感じたままを語り合おう>

となっているので、この表現からすると松岡和子訳である。

板書には原文にはない(嵐はやまない)が付け加えられているのも、この劇を象徴する蛇足であった。

キャストは、リアを河内大和、コーデリアとエドマンドを真以美、エドガーは長濱ゆう子、ケントを長田大史、道化に河内ホダカなど。

上演時間は、途中10分の休憩時間を挟んで2時間40分。

シェイクスピア劇の『リア王』としては不満足であったが、カクシンハンの果敢な挑戦意欲に、次回、11月の公演がどのような形で進むのか、見守っていきたい。

 

(演出/木村龍之介、6月15日(土)昼の部、新宿SPACE雑遊にて観劇)

 

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