シェイクスピア・シアターの上演を20年ほど見続けてきて、初めて観た頃、はじけるような活気に魅せられ、それを楽しんでいたのが、いつのころからから、何となく暗い演出と台詞回しに楽しみを奪われた気がずっとしていた。
今回も初めの方ではその違和感でいっぱいであったが、途中になってあるひらめきを感じ、自分なりの理解ができたような気がした。
舞台は何もないシンプルなもので、台詞のみがこの演出のすべてといってもよいのはいつもの通りである。
リオンティーズが突然嫉妬に狂い始める場面では、その原因であるポリクシニーズとハーマイオニの二人にそれらしき仕草をさせず、単なる背景のような歩き回る所作しかなく、リオンティーズの台詞と噛み合っていないので非常に違和感があった。
この舞台を見るとき、リオンティーズとハーマイオニの二人の所作からリオンティーズの嫉妬の妄想の妥当性をどれだけリアルに感じられるかで自分としてのこの劇の良し悪しの判断基準にするぐらいにしているので、それを無視したような演出に戸惑いを感じたのだった。
役者たちの台詞回しが腰をかがめて大地に向かって言っているので、陰に籠って聞こえ、その台詞回しが暗くて自分にとって苦行のような耐え難さをこれまで感じていたのが正直な気持である。
それが、今回のリオンティーズの極端な演技で、これは一つの様式の確立なのではないかという自分なりの発見をして、納得できる気持が初めて生じた。
そのような見方に立って台詞を聞けば、リオンティーズを演じる大場泰正の完成度もはじめて理解できる。そうやって全体を見るとき、個々の台詞の激しさはあってもその様式から来る基調は、様式から来る静謐である。
前半部シチリアではリオンティーズの「激」に対し、ポリクシニーズとハーマイオニの「静」、後半部ボヘミアの地での毛刈り祭りでの道化、オートリカスの「陽」に対し、パーディタとフロリゼルの「静」が対照的に演じられる。
この様式による全体の暗さを最近の舞台では、劇中歌が息抜きとなっているのを感じているが、今回は宇野幸二郎が演じるオートリカスがそれを果たしている。
最近のシェイクスピア・シアター公演では、かつてのような座員を中心にしたものではなく、文学座からの客演が主流を務めるようになってきて、今回もリオンティーズの大場泰正、ハーマイオニの山崎美貴、ポリクシニーズの神野嵩、カミローの得丸伸二、パーディタの前東美菜子など主だった登場人物を文学座が占めている。
そんな中で、シェイクスピア・シアターの座員の住川佳寿子がポーリーナを好演し、老羊飼いに高山健太、座員を外れてはいるが道化の三田和慶、オートリカスの宇野幸二郎が熱演しているのを観ると嬉しい気がする。
『冬物語』を観るとき、自分がこの劇の良し悪しを判断するもう一つの場面として、ハーマイオニの石像が動き出す瞬間に感動の涙を感じるかどうかにあるが、これはポーリーナ、リオンティーズ、ハーマイオニの三者のアンサンブルの演技にかかっていると思うが、この劇の様式から来る影響のせいか、善し悪しは別にしてその感動はなかった。
心憎いとも言えるキャスティングとしては、20年前にパーディタを演じたという山崎美貴に、今回ハーマイオニを演じさせたことであろう。
好みは別にして、今回の自分の発見で見方を変える必要を感じさせたという点で、自分にとってはシェイクスピア・シアターの見方の個人的転機を促されたということが一つの収穫であったと言える。
上演時間は、途中10分の休憩を挟んで3時間10分。
翻訳/小田島雄志、演出/出口典雄
12月11日(水)18時30分開演、俳優座劇場、
チケット:(『リア王』とセットで)5000円、座席:5列12番
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