― シェイクスピアとは何かが違う ―
福田恆存の訳を用い、物語の進行もシェイクスピア劇そのものなのだが、シェイクスピアとは何かが違う気がした。その違和感は、特に赤堀雅秋が演じるイアーゴを中心にして感じられたように思う。
観客席中央部にディレクター席が設けられ、その席にエミリアを演じる高田聖子とイアーゴの赤堀がいて、 そこから舞台に向かってときどき指示が出されたり、イアーゴの独白やオセロへのささやきが、マイクを使って語られたりする。もちろん、二人は舞台の上でも演じる。
中村トオルのオセロや山田優のデズデモーナが中心に向かって語れば語るほど、反対に円の外側に出ていくような、外枠に置かれたような気分であった。
それは個人的な印象に過ぎないと思うのだが、この演出の構造に起因するものなのか、演ずる俳優全体の印象から起因するものなのかはつかめなかったが、そのどちらでもあるようだ。
劇の構造としては、舞台の上でリハーサルが演じられているという劇の二重構造の中に、観客が劇中でヴェニスの議員やサイプラス島の島民として起立させられ観客参加させられるという三重構造で、さらに最後の最後になってその二重構造の枠を取り払うかのような衝撃的な結末が用意されている。
リハーサルが終わり、死んで横たわっていたデズデモーナもオセロも立ち上がって全員が舞台に集合する。
ディレクター席にいたイアーゴが舞台の上に戻り、いきなりオセロとデズデモーナに向かって発砲し、ふたりはドウとばかりにのけぞって倒れる。しかし、周囲の俳優たちはそれを当然のように見つめ、二人の死体を片づける。
このような付けたしの結末は、他のシェイクスピア劇でもいくつか似たような例を見ているが、それでもシェイクスピア劇としての印象から外れることはなかったのだが、今回はそうではなく、この不思議な感覚は何だろうと思った。
演出やその劇的構造、結末の衝撃性に比してシェイクスピア劇としてのインパクトが感じられなかったのは、自分の感性の受容性欠如によるものかも知れない。
演出の白井晃については、「遊◎機械/全自動シアター」の時から見ているので、まったく初めて観る未知の演出者でもないが、シェイクスピア劇の演出を見るのは初めてであった。
今日もらったたくさんのチラシの中に、来年5‐6月に新国立劇場での白井晃演出による『テンペスト』公演の速報が出ていた。
上演時間は、途中15分の休憩をはさんで2時間45分。
観客は、女性8割、男性2割ぐらいか。女性は若い人が中心で、男性は年配者が多いように見受けられた。
翻訳/福田恆存、上演台本・演出/白井晃
6月9日(日17時開演、世田谷パブリックシアター
チケット:6500円、座席:S席1階K列14番、プログラム:1200円
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