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  キラリふじみ レパートリー新作 『ハムレット』)        No. 2013-010

― オーソドックスなハムレットと実験的ハムレットの融合 ―

 会場のホールに入るとそこには舞台はなく、ホール一面折りたたみ椅子が方向性もなくランダムに置かれているだけで、観客は好きなところに座って下さいと言われる。
演じる空間がほとんどないのでどうやって演じるのだろうか、観客の間で演じるのだろうかと心配になってくる。
 周囲の壁面には大きなスクリーンがいくつもあり、開演されるとそこにまず英語で、次に日本語で「デンマーク王ハムレットの悲劇」というタイトルが映し出され、続いて日本での最初の上演の年と、"To be, or not to be"の文字に続いて、その(多分、上演時の)翻訳が映される。
 そして、謁見の場でのクローディアス(大鷹明良)の演説している姿がアップで映し出され、しばらくの間映像が続くので、この舞台は映像による上演なのであろうかと一瞬疑ってしまうが、ギルデンスターンとローゼンクランツの二人が、ハムレットに役者たちがやってくることを告げる場面で映像が終わって会場が急に明るくなり、役者たちが思い思いに観客たちの間へ割って入ってくる。
 役者たちは何でもお好みのものを演じますと観客に呼びかけ、舞台設定のために観客に椅子を持って移動させ、壁面を背にした半円形の平土間の舞台を作る。
 そこで演じられるのは、ハムレットが生まれ、父ハムレットと母ガートルードに育てられ成長して外国の大学に留学するところまでの所作劇で、その一方では、ポローニアスが男手一つでレアティーズとオフィーリアを育てている場面が同じようにして演じられる。
 ハムレットが成長して外国の大学にいる場面になって初めてハムレット本人が登場する。
 大学にはホレイショー以外に幼馴染のローゼンクランツとギルデンスターンズも学友としている。
 ハムレトが登場してからは、父ハムレットは別の人物が演じ、ガートルードを演じた役者もオフィーリアに役が変わり、ポローニアスもレアティーズに役柄が変わっているという趣向が凝らされていて、反転の面白さを感じる。
 この前座ともいうべき舞台において、原作の始まる前のハムレットがどのように育てられ成長したかが演じられ、王の毒殺の場面も演じられる。
 外国の大学で遊び呆けているハムレットに父の突然の死が知らされ、ハムレットは急ぎ帰国する。
 そこでクローディアスの謁見の場面になると、観客は再び椅子を持って舞台作りに移動させられる。
 椅子の配列はスクリーンに映し出されて指示され、ホール中央部を空間にして横長に椅子を並べ、舞台は広い通路のように拵えられる。
 役者たちによる劇中劇の場面では、観客はいままでの会場であるマルチホールから歩いてメインホールへと移動させられ、次にガートルードの居間の場面になると、そこから再び歩いてマルチホールの二階に移動させられる。マルチホールの二階は階段状の観客席があってその前方に舞台が設定されているが、舞台上には折りたたまれた椅子が散乱した状態で置かれている。
 この椅子が場面ごとに起こされて並び変えさせられ、その場の情景と雰囲気を変えていく。
 と、こんなことをくだくだしく書いていても始まらないが、要は、この舞台が観客をどこまで演劇に直接的に関与させられるかというあらゆる試みが集約されたものであると言えよう。
 ここで演じられる『ハムレット』は、はじめに登場してきた役者たちによる劇であり、いわばメタシアター的構造による劇で、観客は重層的にこの劇に関わらせられる。
 この劇の演出者多田淳之介は、「富士見市民会館キラリ☆ふじみ」の劇術監督を務めるが、この会館全体を十二分に活用しての演出であり、その発想の意外性を楽しむことが出来る。
 基本的には松岡和子の訳を用いながらも、ハムレットをはじめとした若者たちの言葉は現代口語体で、「マジかよ」というようないまどきの言葉が飛び交い、我々の身近な存在へと引きつける。思い悩むハムレットというより、すぐにキレル現代の若者の一人としてのハムレットを感じさせるのも特徴である。
 オフィーリアが埋葬される場面の舞台では、中心部を楕円形の空間にして椅子が二重三重にとい囲むようにして並べられ、オフィーリア以下、ハムレット王、ガートルード、ポローニアス、レアティーズ、ギルデンスターン、ローゼンクランツと死んだ者たちが次々とその空間に椅子を乗り越えて入って行き、ハムレットの方を見つめる。
 見つめられたハムレットは、その死者たちを円周の外から放心の態で見ている。その時に感じたのは、ハムレットの疎外感―死者たちからもさえ疎外された存在―であった。
 そして、死者全員がその輪から抜け出して去った後、ハムレットがその輪の中に入って行く。
 その輪の中でハムレットが最後に語る台詞は、フォーティンブラスがポーランドに侵攻する場面での独白で、「見るもの聞くものすべてが俺を告発し鈍った復讐心に拍車をかける。持ち時間の主な使いみちが食って寝るだけだとしたら人間とは一体なんだ?...」という台詞によって、この舞台の象徴性のようなものを感じさせて終わる。
 オーソドックス(?)な『ハムレット』と、実験的ともいえる斬新なハムレット像が、混然一体化した舞台のように感じ、なかなか面白いと思った。
 演劇の限りない可能性の追求と、観客と舞台の関係について改めて感じさせる舞台でもあった。
 別の側面として気付いた点は、この劇に現在の政治的問題を感じさせるものがあり、領土の価値という点では何の利益もないもので死守するに値しないものであるにもかかわらず、フォーティンブラスがポーランドの一角を攻めて行く場面のハムレットの台詞は、隣国との関係で現在の中国との関係における尖閣列島の問題などの暗示性があり、その意味でもこの劇を現代的なものに感じさせた。
 このキラリふじみでの多田淳之介演出の舞台は、4年ほど前に東京デスロック公演による『リア王』を観ており、今回が二度目となる。
 多田淳之介の演出は、シェイクスピアを古典の枠に閉じ込めない自由な発想の演出であり、現代の若者が受け入れるのに難くない柔軟さがあるように思われる。
 出演は、クローディアスに大鷹明良、ハムレットに米村亮太朗、ガートルードに内田淳子、ポローニアスに大塚洋、ホレイショーに山縣太一、レアティーズに榊原毅、オフィーリアに斎藤淳子、先王ハムレトに猪俣俊明など。
 上演時間は途中休憩なく、2時間30分。


演出/多田淳之介
3月6日(水)19時開演、富士見市民会館キラリ☆ふじみ、チケット:(シニア)2500円、全席自由

 

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