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  『塀の中のジュリアス・シーザー』                 No. 2013-004

 ― 本物の刑務所の中で、実際の服役囚が演じる舞台 ―

 何の予備知識も持たずにこの映画を観ると、まず驚かされるのがオーディションの場面で受刑者たちが自分の名前、出身地などを二色の声―最初に、国境で妻と別れる場面を想像しての悲しい表現で、次に強制的に言わされる怒りの表現―で演じるその迫真力である。長年演技の経験がある者のようにその二つを巧みに表現するのを見て、うまさ以上にその迫真力に驚かされる。
 事前の予備知識を持たずにこの映画を観たので、いろんな面で新鮮な驚きを感じることが出来た。そして、映画鑑賞後に買ったパンフレットの解説で、受刑者たちの矯正プログラムの一つとして演劇が組み込まれているという事実に、自分が抱いていた疑問も解消することが出来た。
 彼らの演技が生半可のものでないのは、この映画でキャシアスを演じた終身刑の服役者コジモ・レーガが、他の者たちと1990年代に刑務所の学校で始めた演劇活動が母体となって、レッビッビア刑務所の元受刑者たちによる"レッビッビア自由演劇団"と一緒になって、刑務所内部と外部のボランティアによるコラボレーションとしての長い歴史を持っていることから明らかになる。出所後、プロの俳優になった者もいるのである。
 この映画の出演者たちは、重罪犯罪人として二重扉の付いた監房に入れられている自由のない者たちであるが、他にすることがない彼らにとって外部の制約がまったくないだけに、演技への集中力は凄いものがある。
彼らが演じる『ジュリアス・シーザー』は、イタリア語で、しかも受刑者それぞれの出身地の方言で台詞を語るように指示される。この点については残念ながらイタリア語を解さないので、その違いの面白さやニュアンスを感じることはできなかった。
 しかし、演じる受刑者の自由な発想を取り上げ、シーザーに3月15日に用心しろという占い師の役を演じる受刑者は、自分の村では占い師は頭のいかれた人間であり、そのように演じてもよいかと言ってそれを実践する。それがまた実にうまく、面白い人物として造形される。
 『シーザー』の台詞に出てくる言葉が、時に受刑者に過去を思い起こさせ、内面の葛藤に苦しむ場面やマフィアを意味する「高潔の士」といった言葉が繰り返し出てくることでマフィアの受刑者と役が二重に重なってきたりする。
 映画は、冒頭はカラーでこの受刑者たちが演じる大詰めの場面が実際の舞台で演じられ、観客たちの惜しまぬ拍手と高揚感の後、受刑者たちが再び、一人一人、それぞれの監房に再び閉じ込められる場面を映し出した後、6か月前のオーディションと舞台稽古のプロセスがモノクロ画面で回想的に追跡される。
 そして再び、カラーで映画の冒頭場面であったこの舞台の同じ場面と、舞台が終わった後、それぞれ監房に戻される場面が、繰り返し映し出されるという円環構造になっている。
 最後に、独房に入ったキャシアスを演じたコジモ・レーガがコーヒーを入れながら、画面の正面を向いて、「芸術を知った時から、監房が牢獄になった」という言葉を吐いた時、イタリア語で「監房」と「牢獄」がどのように違うのか分からないが、字幕のその台詞を見て、ハムレットの「デンマークは牢獄だ」という台詞をとっさに思い出した。
 終身刑のレーガの台詞であるだけに、この台詞の意味を非常に重く感じた。
 自由を奪われた彼らではあるが、逆に演技だけに集中できる彼らの演技力、しかも嘘のない演技に、生身の迫力を感じた。


監督・脚本/パオロ&ヴィットリオ・ダヴィアーニ
1月31日(木)、銀座テアトルシネマにて観る

 

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