10月30日から11月7日まで、本橋哲也先生企画の英国観劇ツアーに参加。
ロンドンに7泊し、その間、シェイクスピア劇3本、その他の劇を3本、合計6本を観劇した。
総論から言えば、すべて秀逸な上演ですこぶる満足でき、堪能することができた。
演目と日程については次の通りである。
●ニコラス・ハイトナー演出の『アテネのタイモン』
開演前、扇形に広がる半円形の舞台の奥には、色とりどりのかまぼこ型をしたテントが、その数20ばかり所狭しとひしめいていて、何かを期待させ、想像をかきたてる。
舞台が始まるとこの装置はすべて消え、結局最後までこのテントは表舞台に出ることはない。
この舞台装置が観客の期待を裏切ることで、逆にこの劇を観終わった時に何かを考えさせ、その解答がないことで却って強い印象が残るのだった。
シェイクスピアの作品の中でも、最も面白くない、不人気な(?)作品の一つであるこの作品を、ニコラス・ハイトナーは我々同時代人の世界として生き生きと甦らせた。
アテネの貴族たちを、資本家や金融界の人物に置き換え、彼らのステイタスを総ガラス張りの超高層ビルを舞台背景にしたオフィスで活躍するビジネスマンに仕立て上げる。
舞台が始まると、毎夜の如くパーティを開くタイモンの邸は、食事の前の控えの間ではワインなど食前酒を楽しみ、奥の部屋との仕切りになる背景が天上から降りてきて、両側の出入り口上部には「タイモンの部屋」という表示が出ていて邸宅の豪華な大きさを想像させる。
饗宴の場の舞台は中央部が盆になっていて回り舞台となっており、控えの間からタイモンの部屋へと移り変わる。タイモンの部屋の奥中央には、エル・グレコの大きな絵が飾られている。
宴もたけなわになったころ、その絵が天上に引き上げられ、絵のかかっていた部分が額縁舞台となって、そこで二人の踊り子がなまめかしくセクシーに踊り、客人たちはテーブル席をかぶりつきの場にしてそれを見入る。
原作では女性の出番が極端に少ないが、ハイトナーの演出では、タイモンの執事役や召使いの一部を女性にし、金融界の人物の一人も女性で、画家と詩人が登場する場面の画家も女性、商人のうち宝石商も女性にするなどして、舞台を華やかにしている。
タイモンは虚栄を享楽する存在として、日夜パーティを開いては友人(と彼が信じる)たちに惜しみなくものを与える。しかし、タイモンの資金は今や自分の資産はとうに食い潰していて、金融界からの借金から成っている。タイモンの破綻が見えてくると、金融界の友人たちは借金取りに変化する。
取り外れのない間は金も貸していたが、返してもらえる当てがないとなると手のひらを返したように、借金の返済を迫り、タイモンの友人たちへの借金の要請はにべもなく断られる。
タイモンが友人たちに裏切られたことを憤り、その腹いせに最後の饗宴を企てる。
招かれた客人たちは、タイモンにまだそれだけの資力があったことを知り、自分たちがタイモンの要請を断ったことを口々に弁解する。
しかし、彼らに出された料理の中身は、料理のふたを開けると中には糞でいっぱいであり、ふたを開けた途端にその異様な臭いに全員が鼻をつまんでふたを閉じる。
原作では、ここは湯と石が詰まった料理ということになっているが、糞にかえたところがみそになっている。タイモンはその糞を客人たちに投げかけて追い返す。
後半部、タイモンが森に引き込む場面は、ここではゴミ集積場に変えられ、タイモンはゴミを回収してまわっては廃棄物の中から残り物の食べ物を捜し出し、それを生きる糧にしている。
タイモンの破産は個人的なレベルであるが、アテネの金融界も破綻を招いている。
ゴミ集積場でタイモンが黄金を見つけ出したことを聞きつけ、タイモンの執事を使って金融界の者たちがタイモンをアテネに呼び戻そうとするが、タイモンはそれには応じない。
原作でのアルシバイアディーズの反乱は、破綻したアテネの経済に市民の暴動に置きかえられている。
この芝居の構造がアテネの経済破綻による国家の危機や、リーマンショックによる金融危機の複合化された舞台となって現代的、同時代的になっていることで、非常に身近に感じられるものになっている。
演出、舞台装置、台詞、演技、構成のすべてが素晴らしく、感動的な舞台であった。
アテネのタイモンにはサイモン・ラッセル・ビール、タイモンの忠実な執事フレイヴィアにデボラ・フィンドレィ、皮肉屋の哲学者アペマンタスをヒルトン・マクレイが演じた。
私の観劇評:★★★★★
(10月31日夜、ナショナルシアター・オリヴィエ劇場、座席:D列19番、チケット:32ポンド)
●マイケル・アッテンボロー演出の『リア王』
演出面で注目していて気付いた点。
1幕1場、リアは国譲りに当たって娘たちに準備していたコロネットをそれぞれかぶせてやるが、コーデリアの分は彼女の返答が気に入らなくて投げ捨て、それをゴネリルが手に拾う。また、この場面の終りで、ネリルとリーガンがリアの扱いをめぐって相談を交わして二人が左右に分かれて退場した後、道化(リアと同じぐらいの年配)が登場し、二人の話を盗み聞き(立ち聞き)していた様子が伺える。
1幕2場、エドマンドが仕組んだエドガーの偽の手紙に憤ってグロスターが退場した後、エドガーが娼婦と戯れながら現われ、エドモンドが娼婦の胸に金を入れてさりげなく去らせるが、これなどはエドモンドがタイミングをはかって娼婦にエドガーを登場させるように仕組んでいることが知られる。
1幕4場、リアがゴネリルの対応に腹を立て、自分自身を見失い、「俺は誰だ?」と自問するとき、道化は彼に向って大きな声で「リアの影」と言う。多くの場合、道化のこの台詞はひっそりと言われることが多いと思うが、ここでは道化はリアに挑戦的に言っているようにさえ聞こえた。
3幕6場、嵐の難を逃れて小屋にひそんでいたリアたちがコーンウォールの追手を逃れるためにドーヴァーに向かい、この場面を最後に道化の登場がなくなるが、リアが去った後道化は道化帽を脱いでそれを残して退場する。狂気のリア自身が道化であり、道化としての自分の出番がなくなったことを暗示するようである。
4幕1場、両目を抉られ自分の城を追い出されたグロスターに付き添うのは老人ではなく、女の召使であった。
4幕2場、グロスターの城から自分の城に戻ってきたゴネリルが、一緒に来たエドマンドを立ち去らせる時、愛情の徴として彼に、自らの手で指輪を嵌める。この場面では、ゴネリルがエドマンドに渡すのは、首飾りの鎖であるケースもあるので、どちらになるのか注目して見た。
また4幕5場でリーガンがオズワルドに、「あの人に会ったら、これを渡してちょうだい」という「これ」が何であるのかが問題になるが、ここでは手紙ではなく指輪を託しているのにも注目された。
5幕3場、リアが殺されたコーデリアを抱いて登場する場面では、彼女を抱いているのはリアではなく、兵士が抱いてリアの後に従っている。これはまったく初めて見る演出であったが、コーデリアを抱きかかえて登場する体力を考えての工夫であろうかと思えた。また、この場面でリアが、「吼えろ、吼えろ、吼えろ!」と叫びながら登場して来るのだが、その叫びはリアの内的叫びとして自分自身に対して言っているようにこれまで感じていたが、ここでは周囲の人間たちに対して促すような叫びに聞こえた。
その他個人的な印象として。
コーデリアのリアに対する態度や姉たちに対する態度は、自己主張の強い人間に感じられ、人に食ってかかるような攻撃的な印象さえ感じ、あまり魅力を感じなかった。
リーガンとゴネリルの二人の姉妹がエドマンドに魅せられるが、それを納得させるようなプロセス説得性に欠けるだけでなく、エドマンドの二人に対する魅力も薄く感じられた。
リア王にジョナサン・プライスが演じた。
リーガンを黒人のジェニー・ジュールスが演じたが、線が細く物足りなさを感じた。
リアがコーデリアの死を嘆く最後の場面での感激はあまり感じなかった。
これまでにも『リア王』の舞台は数多く観てきたが、その中では(自分にとって)平均点以上のものであったが、最高の部類には遠かった。
演出のアッテンボローはアルメイダ劇場の芸術監督を11年間務めてきたが、10月11日に来年(2013年)3月を持って降り、演出の身に集中することを発表した。
私の観劇評:★★★★
(11月1日夜、アルメイダ劇場、座席:G列19番、チケット:16ポンド)
●ティム・キャロル演出によるオール・メイル・キャストの『十二夜』
これほど楽しく、愉快で、面白いシェイクスピア劇を観たのは初めてと言いたくなる最高の舞台であった。
その驚きの言葉を、amazing, fantastic, wonderful !!と英語で表現した方がぴったりする。
キャステイングも絶妙な組み合わせ。
マーク・ライランスが演じるオリヴィアは、顔一面白粉を塗って、お公家さんのようなのっぺりした表情に唇だけが赤く目立ち、その所作は機械仕掛けの人形が動きまわるような歩き方で、台詞回しも少し吃るような言い方で、一挙一動の仕草と話し方すべてが面白く、おかしみがある。
サー・トービー・ベルチを演じるコリン・ハーレイは、顔の表情と飲んだくれの恰好が小型化したフォルスタッフのようで(但し、腹は出ておらず、細身の小さな体)、彼の恋人(?)役であるオリヴィアの侍女マライア(ポウル・チャヒディ)は、彼とは対照的に大柄で、声も野太く、二人のアンバランスな関係がまた面白みを加える。
サー・トービーの相方でオリヴィアの求婚者の一人サー・アンドルー・エイギュチェック(ロジャー・ロイド・パック)は、イタリア喜劇の道化パンタローネのような老人で、ボケたような感じの所作が面白い。
自己の自惚れからオリヴィアに愛されていると信じ込んでいる執事のマルヴォーリオ(スティーブン・フライ)は、小柄なオリヴィアやサー・トービーと対照的に大柄で、重々しく、悠々たる所作がおかしく見える。
オーシーノ公爵(ライアム・ブレナン)がシザーリオに変装したヴァイオラ(ジョニィ・フリン)と長椅子に腰かけて恋愛について語る場面では、オーシーノが観客席側を向き、ヴァイオラは舞台正面を向いた形で座っているので、彼女の表情は見えないが、ヴァイオラはオーシーノの話を聞きながら、次第に彼女の右足をオーシーノの脚に近づけ触れようとする。オーシーノが少し妙な顔をすると、ヴァイオラはその足を引き込めるが、また同じことを繰り返す。その時ヴァイオラの表情が観客席から見えないだけに、観客にとってはいろんな想像が働く。
一方のオーシーノは話に夢中になって、思わずヴァイオラの体を抱いて、何か変だというように一瞬妙な顔をする。この二人の態度や言葉遣いがすべて笑いを誘い、観客の笑いが絶えず爆発する。
ヴァイオラと双子の兄セバスチャン(サムエル・バーネット)はヴァイオラより背が低く、顔も声も女性的で、この二人の対照的な関係も面白い。
道化のフェステを演じるピーター・ハミルトン・ダイアーの歌声が素晴らしく、うっとりさせられた。
オリヴィアを中心として繰り広げられる部隊の展開すべてが面白おかしいのであるが、なかでもセバスチャンとサー・トービーが剣を交えて戦っている場面に駆け付けたオリヴィアが、パイク(穂先に矛がついた槍)を持ち出して来て振り回し、逆にその槍に振り回されてしまうシーンなどは爆笑の渦。
舞台は、エリザベス朝の舞台さながらに、舞台上左右のギャラリーと二階のギャラリーが観客席となっており、三回のギャラリーに楽隊が入っていて音楽を演奏し、開演の合図のラッパがここで鳴らされる。
舞台奥中央には沢山の蝋燭が立てられたキャンドル・スタンド、天上からもシャンデリア状にして沢山の蝋燭が吊り下げられ、あたかもシェイクスピア時代の室内劇の照明のようにして設置されている。
衣裳もシェイクスピアの時代を感じさせる。
舞台が終わると、全員がジグ・ダンスを踊り、観劇の余韻を高揚させる。
シェイクスピアの喜劇の中でも最高の、完成された作品であると言われるのにふさわしく、最高の気分を楽しんだ。
なお、11月7日から同じ劇場で、同じくティム・キャロル演出、ほとんど同じメンバーが出演するオール・メイル・キャストの『リチャード三世』が上演されることになっており、リチャード三世をマーク・ライランスが演じ、セバスチャンを演じたサムエル・バーネットがエリザベス王妃、ヴァイオラを演じたジョニィ・フリンがアンを演じるので、この舞台も是非観たいと思ったが、帰国した後なので観ることができず残念な気がした。
私の観劇評:★★★★★
(11月3日夜、アポロ劇場、座席:F列19番、チケット:68ポンド)
<シェイクスピア劇以外の作品の寸評>
●イプセンの『ヘッダ・ガーブラ』
原作そのものは読んでいて閉塞感を感じて好きになれない作品であるが、嫌いな登場人物ヘッダ・ガーブラを演じるシェリダン・スミスの演技が素晴らしく、またヘッダの夫ジョージ・テスマンを演じるエイドリアン・スカラボーの真面目でコミカルな演技で舞台を楽しむことができた。この二人はともにオリヴィエ賞を受賞した経歴を持つ。
イプセンの作品は舞台装置が克明に記されていてそれをどのように再現するかも興味あるところであるが、ほとんど忠実な舞台装置であった。
ヘッダ・ガーブラは破滅型の女性で、自らが破滅的であるだけでなく、他人を破滅に導くタイプの人間で、それが好きになれない原因でもある。
だが、ヘッダを演じるシェリダンの容貌風姿が見事なまでに美しく、瞳はガラスのように輝いていて、それが彼女の心の冷たさを照らし出していて、ジョージや叔母のユリアーネ・テスマン嬢や女中のベルテに冷たい刺のある言葉で刺すのが憎らしく感じられる。
夫ジョージに対しては、人前ではいかにも仲睦まじく見せるように、夫の手を自分の肩にまわさせるが、それが却って彼女の本心とは裏腹な感じを与える。
そんな負のイメージを救っているのが、ジョージを演じるエイドリアンの演技である。
プログラムにあるエルヴステード夫人を演じるフェネラ・ウールガーとジョージを演じるエイドリアン・スカラボーの対談で、エイドリアンが「ジョージは道化役であり、かつ学究的で、真面目で、家族的な愛すべき人物である」と語っており、フェネラは「イプセンを演じるのは初めてだが、思っていたより大変面白く、ひょうきんな作家であることを発見した」と語っているが、舞台ではそれが体現されていたと言える。
原作を読むより面白く感じられたのは、この二人の対談にあるように、真面目な中にもコミカルな面があるということが大きいと思う。
ヘッダがジョージのライヴァルであるエイレルト・レェーヴボルグの手書きの原稿を燃やしてしまった言い訳に、貴方のためを思ってしたことだという一方で、赤ちゃんが出来たことをにおわすと、ジョージは大げさに跳び上がって狂喜し、そこら中を走り回るのを見ていると、微笑ましくもおかしくもあった。
ヘッダの終りが不幸であるのは初めから分かっているが、わずかな救いは、ジョージとエルヴステード夫人が、レェーヴボルグの原稿を完成させるために協力していくことに希望の光を感じることである。
私の観劇評:★★★★★
(演出/アンナ・マックミン、脚色/ブライアン・フリエル、11月2日夜、オールド・ヴィックにて、座席:E列15番、チケット:50ポンド)
●チェーホフの『ワーニャ伯父さん』
全体の中では地味な作品で、原作の舞台としては退屈で単調なものであるが、原作を正確に再現していることで却ってその古さが新鮮な感じがした。
一幕ごとに幕が下り、幕ごとに舞台装置が変わっているのが昔風の舞台趣向で懐かしい気がした。
退屈な人生を送っているエレーナ、惨めな人生を送っているワーニャ。
今回見た舞台の中で、イプセンの『ヘッダ・ガーブラ』のヘッダとエレーナに似たものを感じさせられた。二人とも自らの意志で今の夫と結婚しているが、その夫に満足しているわけではなく、退屈な生活を送っている。
ヘッダは自らその人生を断ち切ったが、エレーナは現実を逃避してさらなる退屈な生活を送ることになる。
ワーニャを演じるのは、ケン・ストット。医師アーストロフをサムエル・ウェスト、エレーナをアンナ・フリエル、ソーニャをローラ・カーマイケルが演じた。
私の観劇評:★★★★
(演出/リンゼイ・ポスナー、翻訳/クリストファー・ハンプトン、11月3日昼、ヴォードヴィル劇場、座席:L列16番、チケット:63.50ポンド)
●ゴルドーニの『二人の主人を持つと』
ゴルドーニについてはまったく知らなかったし、ましてや作品については何も知らなかったが、観劇の予習にジェフリー・ハッチャーとパオロ・エミリオ・ランディによる翻訳・脚色の台本を読んでいたので、リチャード・ビーン脚色、ニコラス・ハイトナー演出の舞台では、登場人物の名前がすべて英語の名前に変えられていても話の骨格は変わっていないので物語の展開だけは理解できた。
シェイクスピアでなじみのあるハイトナーの演出であることが楽しみであったが、期待を裏切られることはなく、ドタバタ喜劇風で、面白おかしく観ることができた。
私の観劇評:★★★★★
(11月5日夜、ヘイマーケット劇場、座席:M列2番、チケット:45ポンド)
まったく関連性のないことであるが、今回のシェイクスピア劇とそれ以外の劇で、絶妙な面白さと言う点で『十二夜』と『二人の主人を持つと』、原作以上に面白く感じさせた作品として『アテネのタイモン』と『ヘッダ・ガーブラ』、静かな印象としての『リア王』と『ワーニャ伯父さん』が対となって比較対照的に感じられた。
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