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  シアター・カンパニー「カクシンハン」・第2回公演
         『カクシンハン版 海辺のロミオ&ジュリエット』    
No. 2012-017

 2012年4月に『ハムレットX渋谷〜ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか〜』で旗揚げ公演したTheatre Companyカクシンハンが、早くもその第2回公演を同じく渋谷のギャラリーLE DECO4にて、シェイクスピアを素材にして、蜷川幸雄の『タイタス・アンドロニカス』と村上春樹の『海辺のカフカ』へのオマージュ―ともいえる『海辺のロミオとジュリエット』を上演した。
 第1回公演の『ハムレットX渋谷』がそうであったように、東京と、シェイクスピアの架空の場所を舞台にして、東京で起きた事件をモチーフに、シェイクスピアの台詞とストーリーを交錯させ、物語を展開させていく。
 『ハムレットX渋谷』では、「秋葉原通り魔事件」が社会的事件として背景にあり、今回は「地下鉄サリン事件」をバックボーンにしている。
 ハムレットとロミオ(ここではリクと呼ばれ、人格の乖離によってロミオと呼ばれる別人となる)という主人公の乖離性障害による人格の分裂があってそれぞれの事件が発生し、その死をもって人格の統合が完結されるという骨格が二つの作品に共通している。
 この劇では、キャピュレット家とモンタギュー家の両家の争いは、社会的現象としての差別と非差別形の反目という形態として、両家は海と陸に表象される。
 両家は海辺に住んでおり、モンタギュー家は毒に毒されているが、キャピュレット家は毒から免れている。
陸と海は海岸線という境界を境にして永遠に交わることがないように、リクとカイの一族も同じように和解することはなく、そのことは、差別と非差別が永遠になくなることはないことをも表象する。
 プロローグは、この差別による深い傷跡を、漆黒の暗闇の中で登場人物全員によるコロスが唄いあげ、象徴的事件の発生場面から舞台が始まる。
 リクの姉フタバがカイの一族たちによってレイプされ、舌を切り取られ、しゃべることができなくなる。
舌を切り取られ、口に含ませた赤い毛糸で血を流すフタバは、蜷川幸雄の『タイタス・アンドロニカス』のラ ヴィニアを思わせ、蜷川へのオマージュ―が見てとれる。
 レイプの犯罪に対する裁判が始まるが、被害者のフタバは舌がなくしゃべれないために被害の立証ができず、被告たちは無罪放免となり、差別側と非差別側の不公平感が表出される。
 その不公平は、学校教育の面でも存在しており、これまで非差別側は学校へも通えなかったが、リクの時になって初めて学校に通うことが許されるが、実際には毒に染まっているというリクの一族に対する偏見のため、リクの登校は妨害される。
 差別と偏見の間に挟まれながらも、リクとカイは激しく愛し合うようになるが、二人の逢える場所は、海と陸の境界線である海岸でしかない。
 一方、レイプされ舌を切られて口のきけないフタバは一心に絵を描き続けることで終日を過ごし、リクの家族の生活を支えている兄ソウマは教育を受けられなかったことへの不満と、教育を受けていないため、まともな仕事に就けないことへの不満でくすぶっている。
 絵具を買うためにソウマの金を盗んだフタバは、ソウマに詰られ、自ら海へと消えて逝く運命を選ぶが、それは『ハムレット』のオフィーリアを彷彿させる。
 そのように病んだ家庭の中で、リクは人格が乖離し、分裂したリクはロミオと呼ばれる別の存在となり、ファクトリーのロレンスの指示によって、ヴェローナ号の中で、「希望」が詰まっているという紙袋に、硬い棒を突き立てる。
 これは、言うまでもなく「地下鉄サリン事件」を思い描かせるものである。
 ヴェローナ号に乗り合わせていたカイは、ロミオと目と目があっただけで妊娠する。そのことから、ロミオが突き立てたという硬い棒は、ペニスを表象していることが感じられる仕組みにもなっている。
 カイの父ベクレル氏(キャプレットに相当する)は、カイの妊娠はロミオにレイプされたためだと信じ込み、カイに中絶するよう命じるが、カイは性的な交わりは一切ないと反論する一方で、子供をおろすことに応じない。
 ベクレル氏が恐れるのは毒に犯されているリクの一族(モンタギュー家)と交われば奇形児が生まれると信じているからであり、そのためカイが否定するロミオとの交わりをロミオに肯定させようと、拘置所を訪れる。
 ロミオは公開処刑を待つ身であるが、ベクレル氏の頼みを受け入れれば、死刑から無期懲役に減刑し、しかも7,8年で出られるように計ってやると言われるが、身に覚えのないロミオは助命より真実を選び、カイとの性的接触はなかったと主張する。
 カイは、牢獄のロミオを訪れ、二人に性的な関係がなかったものの、お腹の子供が順調に育っており、正常であることを彼に報告する。
 牢獄のロミオにリクが背後から張り付き、短剣を突き出し、ロミオがその短剣を取って自ら命を絶つことによってリクと一体となり、乖離していた人格が統合される。
 人格の乖離と海辺のモチーフは、村上春樹の『海辺のカフカ』を想像させる。
 差別と非差別は、人種問題、貧富の格差問題等幅広く解釈でき、特定して考える必要はないであろう。
 また、モンタギュー家にとりつく「毒」についても、色々な意味合いに解釈できるであろうが、見る側の想像力(創造力)に任せられるとみてよいと思う。
 第1回、第2回公演を通してみて感じたことは、背景として社会的現象の事件を挿入しているが、社会批判や、何かを訴えると言うよりは、それらが現象でしかなく、その根底にあるのは、現代的風潮になじめない若者の失意から生じる自己喪失、アイデンティ喪失による分裂症の病である。
 怒りを表出することを忘れた若者の無関心、無気力は、現代的な現象風景でもある。
 舞台は、内装がコンクリートの打ちっぱなしのようなビルの一室で、観客席を含めた周囲には鉄パイプで組んだ格子状の棚で囲まれ、観客は舞台を三方から囲んでみるような形で観劇し、平土間には所狭しと、雑然と小道具が置かれ、大きくて幅広のビニールが、リクやカイを覆いかぶせるのに用いられる。
 日常的演劇世界を解体するように見える舞台であり、1960年代に始まるポスト新劇の実験劇場にも相当するようなものを思わせるが、必ずしも小劇場的活動を目指すものではなく、シェイクスピアという古典を素材にして、演劇の可能性を模索しながら自分たちの身丈にあった現代を表現しようとする試みであると言えよう。
 演技の面では、シェイクスピア・シアターに最近まで所属していた宇野賢二郎が、ベクレル氏、ロレンスなど様々な役を好演していたのが特に印象的であった(彼は10月1日より、宇野幸二郎に芸名を変更するという)。
 カイ(ジュリエット)に真以美、リク(ロミオ)に松下高士、分裂したロミオに河内ホダカなどが好演。
上演時間は、休憩なしで1時間40分。


脚本・演出/木村龍之介
3月29日(土)13時、渋谷・ギャラリ―LEDECO4、チケット:2800円、椅子席自由席

 

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