『トロイラスとクレシダ』は中心のない作品である。へそのないドラマである。言うなればとらえどころがない。出版記録、上演記録、テクストについても問題と謎に包まれている、不思議な作品である。
悲劇なのか、喜劇なのかも分からないから悲喜劇とも言われ、問題劇と言われている。
そんな作品を蜷川がどのように調理して見せてくれるのか。蜷川は、オールメイル・キャストをこれまで喜劇に限っていたが、今回はこの作品をオールメイル・キャストで臨む。
トロイラスは純情で、クレシダは不実な女か。まずそこが問題である。
ギリシア悲劇の時代に戻せば、戦争に負けた側の女性は悲惨である。美しくて運が良ければ敵方の武将の愛妾になることもできるが、そうでなければ奴婢か奴隷となるしかなかった。
愛は奪って勝ち得るものであった。
トロイ戦争の発端であるメネラオスの妻ヘレネは、その美貌のゆえにトロイのパリスに奪われる。
奪略された後のヘレネは、むしろ積極的にパリスと愛を重ねる。それが運命であれば、嘆くのではなくそれを積極的に受け入れる。
クレシダは、トロイラスと愛の一夜を過ごしただけで、捕虜交換の条件でギリシア方に譲り渡される。
二人は変わらぬ愛を誓って、愛の形見として、トロイラスは袖をクレシダに、クレシダは手袋をトロイラスに渡す。
しかし、クレシダは誓約の唇も乾かぬうちに、ギリシア軍の武将ディオメデスに靡いてしまう。
クレシダとヘレネとにどれだけの違いがあるだろうか。
トロイは、ギリシア側からヘレネをギリシア軍に返せば兵を引き上げるという条件を出されるが、ただ名誉を守るということだけで、実利ではなく名目をとってヘレネをトロイに留める。
これが男の論理とすれば、実利を取るのが女の論理となる。
ヘクトルもトロイ軍も、名誉を守るために戦う。
だが不幸なのは、ヘクトル。彼は旧世代の秩序の中に生きており、それを忠実に守りとおそうとする。
戦場で相手が倒れれば、起き上がれるのを待っている。彼はアキレウスを殺せていたのに、彼に立ち直るチャンスを与える。しかし、アキレウスは反対に、武具を脱いで無防備の状態のヘクトルを襲い、しかもヘクトル一人に大勢でなぶり殺しにしてしまう。
その意味では、トロイとギリシアを、旧世代と新世代の対立という図式で見ることも可能である。
トロイの中にあっては、ヘレネをギリシアから奪ったパリスだけが、新世代に属すると言えよう。
兄弟の中で一番若いトロイラスも旧世代のタイプである。
トロイラスとクレシダの別離は悲劇(的)であるのか。作品を読んでいても、どちらとも言い難い。
蜷川の演出は、この作品が持つ曖昧性、中途半端なところを、余分な解釈を付けずに、良くも悪くもなく、そのまま提示する。原作(原文)に忠実な演出だと思うが、それだけにこの作品に対するすっきりしないものを感じる。
そこで、舞台そのものについてであるが、開場されて劇場内に入ると、まず舞台一面を覆うひまわりに驚かされる。蜷川の演出では、舞台装置の斬新さと奇抜さにもよく驚かされるが、このひまわりにも圧倒された。 場面が転じるとひまわりが一斉に取り払われ、トロイの宮廷の場やギリシア人の陣営の場に変じる。
プロローグの序詞役は、ギリシア軍の道化役テルシテスを演じるたかお鷹を起用していて、それが舞台進展の中で効果的に感じられた。
グロテスクに感じた場面は、アキレウス(星智也)とパトロクロス(長田成哉)のホモの関係を強調し、二人がその行為の最中であったことを示し、真っ裸で登場する場面がある。パトクロスは一応腰に布をまとっているが、アキレウスは完全に裸で、ひまわりの花で前隠ししているだけである。台詞にない行為を表出するにしても、こんな場面はその場に必要であるとは思えないもので、露出の悪趣味にしか感じなかった。
パリスとヘレネの愛撫の場面もグロテスクであった。ヘレネ(鈴木彰紀)はパリス(佐藤祐基)よりも身長が高く、胸の大きさも強調されていて、二人が舞台上で愛の所作を演じる場は、観客の失笑を誘っていた。この場面の所作も不快な気分の方が強かった。
グロテスクといえば、カサンドラを演じた内田滋の演技もそうであったが、彼の方はむしろ、カサンドラの狂気を表出するのに、その誇張された演技に効果を添えていたといえよう。
ヒーローのトロイラスを演じた山本裕典の台詞の発声は聞き苦しいものだった。クレシダをギリシア側に引き渡す時の彼の嘆きと悲痛な叫びの台詞は、彼が声を大にして叫べば叫ぶほど、感動から遠く離れていく。若者の未熟さを表わしていると善意に解釈することもできるだろうが、聞いている方は白けた気分になった。
トロイラスが熱してのぼせた状態であるのとは対照的に、クレシダ(月川悠貴)は冷ややかで、冷たい。言葉だけはトロイラスの愛に応えるが、燃え上がるものがない。それが、ロミオとジュリエットとは大いに違う感じを与える。
月川悠貴の演技を非難しているのでも貶しているのでもない。その演技がこの演出での一つの解釈を感じさせるものとしての興味があった。
この劇が悲劇でも喜劇でもないと思わせる大きな理由は、ヒーローとヒロインの別離はあっても二人の死がないということにおいて悲劇ではなく、結婚で結ばれて劇が終わることもないので喜劇でもない。
シェイクスピアの劇では、悲劇ではヒーローの死があり、喜劇ではヒーロー(ヒロイン)の結婚があるが、その二つがともにない。
あるのは英雄(ヒーロー)の死である。ヘクトル(横田栄司)の死がある。
ヘクトルというヒーローの死をもって悲劇と言うことができるとすれば、それはトロイという国家滅亡の悲劇(の予兆)である。だが序詞役が語っているように、このドラマがトロイ戦争の中の一エピソードだけを扱っていることからすれば、悲劇にまでは至ってはいない。
今回この劇を観ての感想としては、若手の俳優の台詞力への不満足がある。それに反して、蜷川演出初めての出演とはいいながらも、アエネアスを演じた間宮啓行の台詞などは安心して聞くことができた。
ヘクトルを演じた横田栄司(文学座所属)も、参加共演することがある劇団AUNの台詞力を感じさせるものがあり、聞き応えがあった。
テルシテスのたかお鷹、パンダロスの小野武彦、ユリシーズの原康義なども演技、台詞とも、聞いていて、観ていて楽しむことができた。
全体的な印象としては、蜷川幸雄のオールメイル・キャストのシェイクスピア劇はこれまであまり満足したことがないが、今回もその例外でなかった。
翻訳/松岡和子、演出/蜷川幸雄
8月18日(土)13時開演、彩の国さいたま芸術劇場・大ホール
チケット:(S席)8000円、座席:1階D席22番、プログラム1500円
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