高木登 観劇日記2012年 トップページへ
 
  第3回 日英シェイクスピア・フェスティヴァル      No. 2012-008
 

荒井良雄先生の企画・監修による日英シェイクスピア・フェスティヴァルが今回で3年目を迎えた。

今回の企画では、4月14日(土)に、日英朗読劇『ハムレット』(荒井先生が原語朗読に出演)と、サトウ・サラさんの朗読『シンベリン』、それに清水英之先生のシェイクスピア・ソングと『ソネット』朗読が催されたが、残念ながらこちらは予定があって観ることができなかった。

僕が観たのは、4月22日(日)の方で、第一部がTSCの江戸馨さんとつかさまりさんによる英語と日本語によるシェイクスピア朗読劇、インタールードとして清水先生のシェイクスピア・ソング、それに荒井先生と他の皆さんによる『ソネット』朗読。第二部がYSG座長の瀬沼達也さんとサトウ・サラさんによる原語による『リア王』朗読劇、後半が元シェイクスピア・シアター俳優の円道一弥さんと劇団民藝の前田真里衣さんとによる、日本語による『リア王』を原語版と同じカットの場面の朗読劇というプログラムであった。

昨年、喜寿の祝いを迎えられた荒井先生の挨拶の言葉に、先生の意欲と、これから先の計画に対する並々ならぬ意気込みを強く感じさせられた。

先生は、シェイクスピアのコマーシャルな上演(先生はそれを否定しているわけではない)に対して、この企画の出演者がシェイクスピアのプロフェッショナルな集団であることを何よりも強調された。

シェイクスピアを原語で読むことを楽しみとしている者にとっては、理解を深めるのにこれほどふさわしい場はないと言えるほど意義深い内容であった。

 

第一部の江戸馨さんとつかさまりさんの演目は、『ヴェローナの二紳士』と『十二夜』の朗読劇で、江戸さんが英語で、つかささんが日本語の台詞で受けるというかけ合い。

『ヴェローナの二紳士』では、「手紙」の場面と称して、ジュリアを江戸さん、ルーセッタをつかささんが担当し、日本語訳は坪内逍遥を使っているが、まったく古さを感じさせず、自然に聞こえたのが驚きであった。

江戸さんは恋愛劇を演じる年齢について、森光子が18歳の役を演じているのだから、自分が14歳の恋人役を演じても構わないだろうと言われたが、なかなかどうして可愛いヒロインぶりであった。それにいつもは演出で後ろに控え、定期朗読会では日本語での朗読しか聞いたことがなかったので、江戸さんの英語の台詞のうまさに聞き惚れた。単にうまいのではなく、役になりきっているところがすごいし、さすがだと思った。

『十二夜』は、日本語は江戸馨さんご自身の翻訳で、6つの場面構成で、最初は嵐の後、ヴァイオラがオーシーノ公爵に仕える決心をする「嵐のあと」、次が、ヴァイオラが公爵の使いでオリヴィア姫を訪れる場の「柳の小屋」、そしてオーシーノ公とヴァイオラが恋人について語る「女とは薔薇の花」、それから「マルヴォーリオの黄色い靴下」と続き、「五月の薔薇にかけて」で告白の場面となり、最後の「大円団」を迎える。

それぞれの場面の前に江戸馨さんの短い解説が入り、それがこの劇を理解する(あるいは鑑賞する)上で非常に役立っただけでなく、江戸さんが演出される上で、どのように考えてなされているのかを垣間見る気がした。

たとえば、人物像を思い描く時に、オーシーノ公の場合、長い間戦争に明け暮れていたのが、今では平和となって時間をもてあまし、そんな折にオリヴィア姫の事を聞きつけ、見てもいないのに恋して、断られれば断られるほど恋の思いが募っていく。そのようにオーシーノ公を想像してみるのだった。

俳優が人物を演じるのに、一人の人物を台本にはないこれだけの情報を持って演じるのと、まったく何もないところから演じるのでは大きな違いが出るだろうと思った。

江戸さんが各場面に付けられた小タイトルも詩的な響きを感じた。

江戸さんとつかささんの台詞のやり取りでは、舞台を見ているような迫力があり、朗読というより、立ち稽古(実際のものを見たことがないので想像するだけだが)のようであった。

実際の舞台と異なり、余分なものが一切ないので、本当に台詞を楽しむことができる。そして英語と日本語の掛け合いもごく普通に感じて、英語で聞いているのか日本語で聞いているのか、一瞬忘れてしまうほどだった。

音楽は、TSCの公演には欠かせない佐藤圭一さんが担当。

 

インタールードの清水さんのシェイクスピア・ソングでは、江戸さんたちが演じた『十二夜』をモチーフに選んで、耳を楽しませてくれたが、一番心に残ったのは、フェステが最後に歌う唄「ヘイ、ホー、雨はまいにち降るものさ」だった。

シェイクスピア・ソングの間に、荒井先生がソネットを原語で力強い声で朗読され、同じソネットを2名の女性の方が日本語訳を美しい声で朗読し、別の2名の女性が言語と日本語でそれぞれ朗読した。

 

第二部では、最初に瀬沼達也さんとサトウ・サラさんによる『リア王』の原語による朗読劇で、台本は荒井先生がカットしたものだが、リアと三人の娘による台詞だけをつなぎ合わせ、実にうまくストーリーを組み立てたものだった。

瀬沼さんがリア王、サトウさんがリアの三人の娘、ゴネリル、リーガン、コーデリアを、声色を変えてそれぞれ朗読。これも朗読というより、リアのパーフォーマンスはそのまま舞台となるような演技といってもいいものであった。

サトウさんは、荒井先生の紹介によると、ロンドンでシェイクスピアを学び、その後そこで10年間演劇を学んでいるが、日本の舞台は初めてということであった。

瀬沼さんの迫力ある台詞と演技のリア王に較べれば、サトウさんは一貫して冷ややかな感じで演じているように見えたが、リアの台詞に応じて向ける目線には、台詞以上に語りかけるものがあった。

コーデリアが、失意と悔恨の状態にあるリアに語りかける場面では、彼女の目が潤み、今にも涙がこぼれ落ちそうで、思わずこちらまで眼頭が熱くなってきた。

三人の娘以外はリアのみの登場であるので、”Lear’s shadow”の台詞は、リアの口から発せられた。

当然自問する形での発音であるが、この個所は、<雑司が谷シェイクスピアの森>の『リア王』の会読でも話題、論議になったところで、聞きどころであり、興味深かった。

円道さんと前田さんによる同じ場面の日本語による朗読劇でも、円道さんのリアは朗読劇というより、ほとんど舞台に乗せられる演技といってもいいものであったが、嵐の場面やコーデリアが殺された後に登場する場面の台詞は、原語の持つ魅力を聞いた後では、どうしても英語が持つ音の響きに負けてしまう。

二つの場面のパーフォーマンスと台詞力という点では、二人に甲乙の差はつけ難いのだが、こればかりは原語のもつ力でどうしようもない。

しかしながら、原語と日本語の舞台を同時的に観ることができるというのは、この企画ならではの贅沢な喜びであり、荒井先生が言われるプロフェッショナルなるものを実感として感じた。

『リア王』の朗読劇には、東儀雅楽子さんの笙の演奏が入り、これも贅沢な趣向であった。

 

2016年のシェイクスピア没後400年に向かって、荒井先生の企画が着実に進行しているのを裏付ける今回のフェスティヴァルルであった。この企画に感謝、感謝!!

この日、町田のシェイクスピアの会のNさんと、またまた偶然ご一緒となる。今年、早くも三度目の偶然の同席。

 

4月22日(日)、13:00−18:00、自由が丘の“STAGE悠”にて。

 

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