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  彩の国シェイクスピア・シリーズ第25弾 『シンベリン』       No. 2012-006

3・11の「奇跡の一本松」で「ゴドーを待ちながら」を表象化?!

 予約していたチケットが届いたとき、その座席番号を見て落胆した。S席ではあっても、2階席U列20番とあり、これでは舞台が遠くて十分に見えないと思ったからだ。映画と違って、演じる役者の呼吸を感じることができるのが舞台の楽しみであると思っているので、舞台から離れ過ぎた観客席となると、その楽しみだけでなく、目の悪い自分にとっては表情も見えないので面白さも半減する。
 ところが今回ばかりは、それほど落胆する必要もなく、むしろスケールの大きなスペクタル的演出で、全体を俯瞰するのにはちょうどよいくらいであって、細かい表情はオペラグラスでときおり確認するくらいですんだ。
 オペラグラスを使うのが好きでないのは、全体の動きを見過ごすことがあるからだ。
 今回の演出の醍醐味は、ヴィジュアルなスペクタルを楽しめることが大きな要素でもあった。
 背景、音楽、衣裳など、和洋折衷的なところが多くあり、それがロマンス劇という一種荒唐無稽な物語が、異国的雰囲気に翻案されるのを楽しむことができた。
 ブリテンの場面では、水墨画のような薄墨色の山水画の書割を背景にし、追放されたポステュマスが亡命した先、ローマのフィラーリオの邸の部屋の模様は、源氏物語の絵巻の風景で純日本的なものである。
 その絵巻物の絵、実はプログラムの解説(「『シンベリン』を彩るキーワード」)を読むまで分からなかったのだが、その絵は、「雨夜の品定め」の場面であった。
 フィラーリオの邸での客人たちの話題は、ほかならぬ美人のお国自慢であり、まさにこの絵巻絵の「雨夜の品定め」は、ぴったりといえるほど、心憎い演出である。
 この場面に登場するローマ人の衣裳も、ローマというよりは和洋折衷的なものであり、全体的にエキゾチックな印象を与えるものである。
 この部屋の中でローマを表象するものは、雌狼とその乳を飲んでいる双子の兄弟ロムルスとレムスの像だけであるが、この像はローマを表象する場面でその後も度々登場する。
 話は飛躍するが、自分には、この狼に育てられた双子の兄弟は、幼い時にさらわれたシンベリンの二人の王子とイメージが重なってくるのだった。
 前半部ではこの舞台背景の場面変化は、暗転を使いながらゆっくりと転換するのだが、そのため前の場面の余情を感じながら、次に来る場面の期待を掻き立てる効果もあったと思う。
 このように場面の転換に伴う書割もこの舞台をスペクタル的にしている要因の一つでもあるが、書割なしで、広い舞台をいっぱいに使った、ブリテン軍とローマ軍との戦闘場面など、見せ場としてのスペクタルも多くあった。
 男装したイノジェンが、ポステュマスの召使ピザーニオと別れ、一人ミルワードを目指し、後ろを振り返りつつ心細く歩いて行く前方の道が照明に白く映し出されて、舞台奥まで細く長く延びているのが印象的であった。
 スペクタルの大詰めともいえるのは、ジュピターが大鷲に乗って空中を浮遊し、眠っているポステュマスのところに現れる演出である。
 もともと『シンベリン』には荒唐無稽なところがあるが、この場面には神話的な要素が織り込まれている。
 音楽にも洋楽や能や歌舞伎のような音色を用い、楽器もギターやバイオリンと、琵琶などが使われ、笙のような音色が響き、和洋折衷からなる融和の美を感じた。
 遠方の客席からでも、細かい表情をあまり気にせず見ることができたのは、シェイクスピアのロマンス劇のなかでも、『シンベリン』が人物像の善悪がはっきりと分かれた類型的なところがあるからだと思う。
 ヒロインのイノジェンの衣裳は純白で、彼女の誠実、貞節、純粋さを表象しているのも印象的だった。
 主役のイノジェンやポステュマスの演技もさることながら、パターン化のはっきりしたシンベリン王、王妃、クロートン、ヤーキモーなどを演じる演技に多く惹かれるものがあった。
 舞台では前半部にしか登場しないが、その存在感が強く感じられる憎らしいほどの王妃を演じる鳳蘭は、着ている黒い衣裳で、魔女のように見えた(これは誉め言葉)。
 どちらかと言うとシリアスな役を演じる勝村政信(本人自らが悲劇しか演じたことがないと語っている)が演じるクロートンは、思い切り馬鹿さ加減を出して喜劇的調子を添えている。このあたりの役付けは、蜷川幸雄が得意とする意表を突くキャスティングでもあり、意外性で思わぬ効果をあげている。
 短気で思慮に欠けるシンベリンを演じるのは吉田鋼太郎。
 この舞台を見ていてずっと感じていたのは、シンベリンがリア王と重なって見えたことだったが、プログラムのなかで、シンベリンを演じた吉田鋼太郎自身が、リア王に似ていて、<幸せ版・リア王>だと語っているのに納得。
 『シンベリン』そのものが、シェイクスピアが過去の自分の作品から取り入れたものが多い作品ともいえるで、そのような印象がする一因となっていると言えるだろう。
 ヒロインのイノジェンを演じるのは大竹しのぶであるが、彼女は、蜷川シェイクスピアでは、過去にマクベス夫人を演じており、悪玉からと百八十度異なる善玉の役への転換も、蜷川幸雄のアイロニイな遊び心を感じて面白いと思った。イノジェンはフォリオ版に従ってイモージェンとするのが普通であるが、イノジェンとした理由について翻訳者の松岡和子は、イノジェンであるという可能性の説があることを採用して敢えてそうしたことを述べ、またイモージェンから連想される「イモ」(芋)のイメージを回避する狙いもあったことを語っている。
 ポステュマスにはシェイクスピア劇が初めての阿部寛が挑戦。これもいつものことながら、蜷川幸雄の一つのポリシーを見る思いがした。
 今回は舞台背景に見るべきものが多くあったが、最後の決め手は、大円団の場における一本の松の木である。
 これも何かを表象するものであろうことは想像していたのだが、プログラムを見るまではそれが昨年の3・11の津波に耐えて残った「奇跡の一本松」と呼ばれるものを表わしていることには思いつかなかった。
 舞台後方に淋しく立つこの一本の松には、後追いの感想であるが、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の一本の枯れ木を連想した。枯れ木の下で待つエストラゴンとヴラジミールにはゴドー(ゴッド?!)は来なかったが、津波に耐えて残ったものの海水のため根腐れで蘇生が絶望的となった奇跡の松は、果たして甦ることができるのかどうか―神は来るのか来ないのか、或いは、この世に神はいるのかいないのか―そんな問いかけをしているような気がした。
 奇しくも、蜷川幸雄のロマンス劇上演に当たっては、『ペリクリーズ』が政治的事件の9・11の一年後、『シンベリン』が自然災害の3・11の一年後、というふうに重なりあったが、蜷川幸雄はそのどちらにもメッセージを入れ込んでいる。
 このように舞台は大いに目を楽しませてくれるだけでなく、メッセージを含んだ道具立てにもこと欠かないのであるが、ロンドンの2012ワールド・シェイクスピア・フェスティバルの招待が最初から決まっていたこの作品が、バービカンでもこの舞台装置がそのまま再現できるのかどうか、またそれに託されたメッセージをロンドンっ子たちがどこまで理解できるのかどうか、その反響を直接目の当たりに見たいという思いに駆られるのだった。 

 

4月10日(火)13時開演、彩の国さいたま芸術劇場・大ホール
チケット:(S席)9500円、座席:2階U列20番

 

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