高木登 観劇日記2012年 トップページへ
 
  さいたまネクスト・シアター No.3公演 『ハムレット』      No. 2012-003
 

〜蒼白の青少年たちによる『ハムレット』〜

衝撃が走る、とはこのことだと体感させられる。

ハムレットとオフィーリアの尼寺の場面。

「尼寺へ行け」と絶叫するハムレット、泣き伏すオフィーリア。

その台詞に覆いかぶさるように舞台後方、ホリゾントの黒いカーテンが左右におもむろに開いていき、こまどり姉妹が歌いながら登場する。

背景の淡い紫が霧状に漂うなか、輝くばかりの黄色い着物を着たこまどり姉妹が歌っているのは、「幸せになりたい」という歌。

その歌声を聞いた瞬間、理由もなく涙が眼に溢れてきた。

今回の舞台は、大ホールの客席を舞台にして、それをコの字形に三方がすり鉢状に昇っている客席が囲む張り出し舞台である。

その舞台の高さもわずか30センチほどで、最前列の席に座っていても役者の目線にさほど高さを感じない。

そしてその舞台は、板張りのかわりに全面がガラス(アクリル板)となっていて、下の奈落も舞台として使用される構造になっている。

その張り出し舞台を、こまどり姉妹が静かな足取りで客席を見回しながら「幸せになりたい」を歌って歩いてくる。

今回、こまどり姉妹が特別出演することは初めから分かっていたが、これほど絶妙なタイミングの場面に、これほどふさわしい曲はないというほどの選曲に胸が震えた。

オフィーリアに「尼寺へ行け」というハムレットの屈折した心を浄化するように、こまどり姉妹の歌が歌われる。

「幸せになりたい」という歌が、ハムレットの歪んだ心に対して直線的に訴え、響いてくる。

「幸せになりたい」という言葉は、ハムレットとオフィーリアの若い二人が切に願う、内なる思いの吐露でもある。

今回の『ハムレット』は3時間35分に及ぶ長い舞台(途中、15分の休憩が1回ある)で、かなり舞台に疲れ、緊張が緩みかけてきた時でもあり、この衝撃は単なるショックに終わらない。

こまどり姉妹の「幸せになりたい」というこの歌は、エンディングにも歌われるが、それも非常に効果的な印象と余情を残す。

レアティーズが死に、ガートルードが死に、クローディアスが死に、ハムレットが死んで、辺りは殺戮の場と化したところへ、ポーランドの辺境を侵略したフォーティンブラスが凱旋してくる。

ホレイショーがデンマークの王に推挙したというハムレットの遺言をフォーティンブラスは受けるが、その報告を聞いた後、宮廷にいるデンマークの貴族たちは一斉に射殺され、ホレイショーもフォーティンブラスによって射殺される。

このすべてが終わった沈黙の舞台に、こまどり姉妹の「幸せになりたい」という歌が再び歌われフィナーレとなる。

フォーティンブラスがデンマークの貴族、ホレイショーを殺すという結末自体は、特に目新しく独創的なものではないが、演出の全体の枠組みの中で考えてみる時、示唆的なものを感じるのだった。

『ハムレット』には、父を奪われた三人の若者が登場する。

デンマーク王ハムレットを殺された息子のハムレット王子、父ポローニアスを殺されたレアティーズ、そしてデンマーク王と正当な決闘で死んだノルウェー王フォーティンブラスの息子、フォーティンブラスである。

このうちレアティーズとハムレットには、その復讐の成就において、個人的な印象であるが、これまでの解釈と異なるものを感じた。

その印象が起因する原因は、二人の女性に対する二人の態度である。

レアティーズがパリに戻るとき、妹オフィーリアを抱擁する姿は、通常の兄妹を超えた、恋人同士のようである。

ハムレットが母親ガートルードの寝室で母と抱擁する場面も通常の母と息子の関係を超えたものがある。

ハムレットとガートルードの関係については、いまさら新たに付け加える必要はないほど、いろいろ言われてきているのでここに説明を要しないだろう。

ここで僕が感じたのは、レアティーズは父ポローニアスの復讐を成就したのではなく、結果的には妹オフィーリアの復讐であった。そしてハムレットの復讐は、父ハムレットの復讐ではなく、母ガートルードの復讐を果たしたという印象である。

フォーティンブラスがハムレット王子の遺言にもかかわらず、あえて暴力的に王位を勝ち取るのは、彼の復讐が終わっていないからであり、デンマークの貴族たちを殺すことによって彼の復讐が果たされるからである。

これまでフォーティンブラスがこの場面で宮廷の貴族たち全員を射殺する意味を特に考えることがなかったのは、その衝撃的結末によるショックのためであったと思うが、これが繰り返し演出されることで二番煎じにならないためには、そこに何らかの意義が求められるだろう。

フォーティンブラスだけが父親の復讐を果たした。彼の姿は上半身裸で、三人の若者のなかで一人野性的である。若者よ、与えられるのではなく、自ら権力を勝ち取れというメッセージを読み取ることもできる。

そういう意味合いで、今回その意味を感じることができたのは、この演出の全体の構造に負うところが大きいと思った。

蜷川幸雄が率いる“さいたまネクスト・シアター”の俳優陣の平均年齢は25歳という若さで、ポローニアスを演じる一番の年長組である手打隆盛ですら32歳で、クローディアスを演じる松田慎也は25歳と若いが、ともに十二分に貫禄を打ち出していたといえる。

ハムレットは若い、未熟な若者として29歳の川口覚が演じるが、第4独白の’To be or not to be’は今回河合祥一郎訳を用いているので、小田島雄志訳の「このままでいいのか、行けないのか」と逡巡するセリフと異なり、「生きるべきか、死ぬべきか」という直接表現になっているが、この舞台の直線的、直情的ハムレットとして適切な選択であると思った。

そのハムレットが最後まで父の復讐をためらい、実行できずにいたのが、母ガートルードの死がクローディアスの陰謀と分かってからであり、直線的、直情的に復讐を果たすのは先にも延べたとおりである。

総勢30名の“さいたまネクスト・シアター”が代表的な役を二役する必要はないと思うが、今回ポローニアスを演じた手打隆盛が墓掘り人も演じ、クローディアスを演じる松田慎也がハムレットの亡霊も演じるというのも、一つの意図を感じた。

これまで蜷川幸雄の『ハムレット』といえば、階段を用いてその階段を疾走するハムレットが代表的だが、今回は同じ垂直的動きはっても、奈落と本舞台を駆使しての演出も、ネクスト・ジェネレーションを志向する蜷川幸雄の果てしないチャレンジ精神を見る思いがした。

全席自由席で、満席でも210人の客席に、4000円の料金は格安に感じた舞台であった。

 

(演出/蜷川幸雄、翻訳/河合祥一郎、美術/中西紀恵、彩の国さいたま芸術劇場大ホール・インサイド・シアターにて、2月28日(火)昼、観劇)

 

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